2015/12/20

ハル松方ライシャワーの Samurai and Silk を読んで


日本で生まれて14歳まで日本で過ごしたエドウィン・O. ライシャワーが1961年から1966年まで異例の学者大使としてアメリカから派遣されてきた。さらにライシャワー夫人(ハル松方ライシャワー、19151998)が日本人だったことから、日米間の架け橋としてこれ以上の人材はいないと思われるこの大使人事を日本国民は大歓迎した。当時、中学高校時代だった筆者の意識にも ライシャワー大使の名前は浸透していたように思う。ライシャワー夫人が書いた本が出版されたという話しを昔聞いたとき、アメリカに留学してアメリカ人と結婚していたこともあって、そういう世界の人はどんな背景とどんな事情で国際結婚したのかという好奇心を抱いていた。それが頭の隅に残っていたのを思い出したのが、この本を読むきっかけだった。



ネットで検索したら、ハル松方ライシャワーが書いた本は、初版が1986年の Samurai and Silk: A Japanese and American Heritage (日本語訳は『絹と武士』)のみであることがわかり、さっそくAmazonの古本で買って読んでみた。届いた本は図書館の貸し出しカードが入ったまま、バークレー・パブリック・ライブラリのスタンプが押してあった。最後の貸し出しの日付は1998318日となっている。ハル松方ライシャワーが亡くなった年である。ライブラリに重複する寄贈があって、古本として処分されたのかもしれない。あるいは、借りた人が返却するのを忘れてそのままになっていた本が古本として処分されたのかもしれない。開いてみると、所々に単語の訳と思われる漢字の書き込みがあり、ある時点で日本語を母国語とする人が読んでいたことがわかる。

本の内容は、ハル自身の生い立ちよりは、母方と父方の祖父の生い立ちと足跡をたどる話が主体になっている。父方の祖父は薩摩藩出身、明治維新の元勲の一人として日本の金融と財政のシステムの基礎を整備した松方正義(18351924)、母方の祖父は群馬の豪農出身、20才でアメリカに渡って永住し、生糸の対米輸出事業を成功させ、富国強兵に必要だった外貨獲得に貢献の大きかった新井領一郎(18551939)である。「侍」というのは父方の祖父の人生を、「絹」は母方の祖父の人生を指している。


この本の魅力は、維新前夜から日米開戦前夜までの日本史を、その形成に深く関わった松方正義と新井領一郎という二人の個人の人生に重ねてたどることができるまれな歴史本になっていることである。歴史的な事件とその関係者の名前や年代を羅列した歴史の教科書よりはるかに面白いし、その経緯もわかり易い。しかも、松方正義が書いた記録や一族でなければ知ることができないエピソードが元になっているから、日本近現代史の英語の資料としても貴重なものだと思う。松方正義の子供(正妻と妾の子供合わせて115女)や孫たちの足跡をまとめた最後の章も興味深い。息子たちの多くは半官半民、あるいは民間の会社を運営し、日本経済の基礎を作ったが、松方家の人々は自由民権運動と普通選挙が実施されたころにはほとんど政治の世界から手を引いている。軍にも直接関与していない。時代が進んで、欧米の大学へ留学した経験を生かして海外特派員などジャーナリストとして活躍した者も出ている。戦後アメリカの新聞社に雇われたハルもその一人だ。


松方正義の息子たち(ハルの伯父たち)の多くは留学や海外勤務で欧米での生活が長く、彼らは欧米文化に完全に順応した生活を送っていたようだ。欧米文化を楽しむだけでなくその紹介・普及にも力を入れていた。最も有名なものは、松方コレクションで知られる西洋美術の蒐集であろう。ボーイスカウトや登山などに熱心だった者もいた。彼らは日本の超エリート層を形成し、海外では国際通の穏健派と見なされていた。国内のエリートたちはもとより、欧米のエリートたちとの個人的な人脈も利用できる立場にあった。排日運動などアメリカの態度が硬化してきた1934年と、日米戦争が避けられそうもない気配になってきた1939二度にわたり、ハーバード大学時代にフランクリン・ルーズベルトと交友のあった松方乙彦はルーズベルト大統領に直接話をする努力をしている(もっとも、その努力はあまり歓迎されず、国務省による妨害もあったらしい)。


当時の上流社会、特に女性の間で、キリスト教の教会に通うのがファッショナブルだったらしいのもこの本を読んで初めて知った。それが当時キリスト教系の女学校が多数設立され、今日でも良家の子女が通う有名校になっている理由でもある。宣教師の下へ通った人々の第一の目的は英語の習得だったようだが、教会での集まりは、それまで日本にはなかった形の社交や社会奉仕の場所を提供していたようだ。驚いたことに、生糸の生産と輸出に中心的な役割を果たした新井家の群馬の親族たちは、使用人や従業員ともども全員キリスト教に改宗している。


戦争花嫁?

日本でもヨーロッパでも勝者となったアメリカの軍人の中には、現地の女性を戦争花嫁としてアメリカに連れて帰ったが少なくなかった。ウィキペディアによると、エドウィン・ライシャワーは戦時中、アメリカ陸軍の参謀部情報に少佐として入隊し、日本軍の暗号解読や心理戦などの対日情報戦で活躍し、1948年(昭和23年)には人文科学顧問団の一員として占領下の日本へ来ていたから、その可能性も皆無ではなかったが、そのときはそういうめぐり合わせにはならなかった。

ハルの祖父、松方正義は明治、大正、両天皇の信任が篤く、最後に公爵の爵位を与えられている。つまり、ハルの父親は7男だったから爵位を継ぐ地位にはなかったが、松方ハルは一応貴族のお姫様ということになる。そのお姫様が、エリート中のエリートとはいえ、なぜアメリカ人と結婚したのか。結論から先に言うと、松方ハルはアメリカ人として教育されたからというほかない。母方の祖父はアメリカに永住し、その娘、ミヨ(ハルの母)はアメリカ生まれのアメリカ育ち。松方正義の7男、正熊と結婚して日本で暮らしたが、日本社会になじむことができず、アメリカのクリスチャン・サイエンス教派の宣教活動に加わって、在日アメリカ人たちと親交を持った。子供たち(1男5女)には、日本の教育を受けさせることを拒否して、アメリカン・スクールに通わせ、アメリカ人やイギリス人の家庭教師を住み込みで雇っていた。宣教師の息子だったエドウィン・ライシャワーはそのアメリカン・スクールの先輩だった。もっとも、結婚は、占領終了4年後の1955年に偶然に再会してからのことで、挙式は1956年、ハルが40歳のときだった。ライシャワーは45歳で、先立たれた先妻との間に既にティーンエイジの3人の子供がいた。

ハルは次女だったが、戦時中に両親と共に日本にとどまっていたのはハルのみである。戦後、日本に戻って西町インターナショナル・スクールを設立した三女の種子を除いて、全員がアメリカ国籍を取得してアメリカに住んだ。この本の副題が A Japanese and American Heritage とあるように、松方ハルは自分が文化的な二重国籍であることを強く意識していた。というか、自分が日本人でもアメリカ人でもないことに少し引け目を感じていた。特に、普通の日本人としての教育を受けていなかったことを嘆いていた。この本の元になった祖父の書いた漢文の文書も読むことができなかったので、人を雇って通常の日本語文に翻訳してもらっていた。

男尊女卑

ハルはあのシナ事変の起きた1937年の夏にアメリカのプリンシピア大学というクリスチャン・サイエンス教派の大学を卒業して日本に戻っているが、日本の男との結婚は考えることができなかったと、次のように書いている。

My upbringing made me feel that I could never submit to what we would now call the blatant male chauvinism of Japanese husbands. (私の育ちや教育の結果として、今なら露骨な男尊女卑と呼ばれるであろう態度を示す日本の男を夫にして仕えることなど絶対にできないと思うようになっていた。)

ハルの母親ミヨが日本人社会に溶け込むことができなかったことはすでに述べたが、ミヨが日本人に対して抱いていた批判的な感情の元になった具体的な事象として挙げられているのは、親戚付き合いで母親たちの世間話が娘の嫁入り道具の話に終始したこと(社会一般のことにまったく関心がない)、夫も含めて周りの人間が、愛情の表現に乏しく、冷たいと感じた、さらには「空気のように無視された」と感じたことなどである。そういう母親の批判的な態度がハルに少なからぬ影響を及ぼしたことは疑いないが、それを元に男尊女卑というのは被害妄想の範囲であろう。同じことは、逆のケース、つまりアメリカ人の夫が日本人の妻に対して感じても不思議はない。この点に関しては個人差も大きく、アメリカ人でも「I  love you.」など歯の浮くようなことはいえない。第一そんなことを取り立てて言葉で表現しなければ愛情を感じ取ることができないようでは、話にならないと言う人も結構いる。男尊女卑ということで言えば、今日の日本とアメリカを比べれば、アメリカの方がひどいと思われることもあるから、当時も似たようなものであったと推察される。ハルが身近に見て比較できた日本とアメリカは、日本が武家/貴族の社会だったのに対しアメリカはクリスチャン・サイエンスの宣教師や付属大学の先生たちだったことを考慮に入れる必要がある。ちなみに、ハルの母親が参加していたクリスチャン・サイエンスは女性が始めた進歩的な新興宗教であった。クリスチャン・サイエンスは今では宗教よりは報道機関として名を挙げている。

明治以降、日本にはアメリカから多数の女性宣教師が派遣されてきていた。アメリカ女性宣教師の来日とその生活 - 金城学院大学(篠田靖子 著)から孫引きすると、明治中期の1年間(1889年)にアメリカが日本を含め海外に派遣した宣教師の総数は527名で,そのうち既婚男性が166名(ほぼ同数の夫人を含む),独身の男性宣教師が34名,独身の女性は171名であった(小檜山ルイ著の『アメリカ婦人宣教師』より)。つまり、夫人も含めると2/3が女性であった。その理由として、教職が高等教育を受けた女性の唯一の職業であったこと、多くは教会付属の小さな学校や私塾のような場所で教えていたが待遇は劣悪で不安定だったこと、婚期を逸した女性にとって宣教師は男性と同等の待遇が期待できる唯一の職業であったことなどが指摘されている。日本に来ていたアメリカ女性宣教師たちは宣教師というより元々は教育者であった。したがって、彼女らは宣教活動より学校を開くことに熱心だった(実際にキリスト教徒になった生徒は期待されたほどいなかった)。当時日本では、文明開化のためにエリート層は英語と欧米の生活様式を学ぶ必要があったが、欧米留学の準備として、あるいはその代わりとして、エリート層の子女たちは宣教師たちが教える英語塾や学校に通っていた。女性に特に人気があったのは、息子たちを海外に留学させても娘たちを留学させる家庭は少なかったからではないかと推察されるが、そういう日本側の需要とアメリカ側の教師の供給がたまたま一致したのであり、今日でも多くの英語圏の若者が日本で英語を教えているのは、その流れが継続されてきたことを示している。そういう流れの中で戦前に宣教師として来日していたアメリカ人女性を見れば、アメリカでは女性の権利や社会進出が実現していたように見えたのかもしれない。ハルはアメリカに比べて日本では女性の社会進出の機会がなく、個人的に英語を教えることぐらいしかできなかったと嘆いている。

祖父の松方卿が日本の上流社会の女性が赤十字などでの奉仕活動に参加することを奨励したことが誇り高く書かれているが、当時の中流の上から上のアメリカ社会でも女性の社会進出は慈善事業や教会を通した奉仕活動と教職以外にあまりなかったはずである。今でも、慈善事業や奉仕活動は社会経済的な富やステータスのシンボルである。また当時、高い教育を受けたアメリカの女性にとって教職がほとんど唯一の職業であったことは、日本では女性がお稽古事や塾の先生であったことに匹敵する。唯一の違いは、アメリカの女性参政権が1920年に実現していたことぐらいであろう。この参政権運動が宗教色の濃い運動だったことは、その余勢で禁酒法を制定したことからも明らかであるが、当時日本へ来ていたクリスチャン・サイエンスの宣教師たちも女性の社会への関与に高い関心があったことは想像に難くない。

欧米化

松方ハルの人生は、特殊な育ちの日本女性の例として読むこともできるが、祖父の時代に始まった「文明開化」の1つの帰結であり、松方家と新井家の歴史は、あの時代に、欧米社会に受け入れられ、対等に渡り合えるよう必死の努力を重ねてきた日本の超エリートたち、欧米の名門大学に留学するのが常識となっていたエリート層の息子や娘たち、さらにはその孫たちの欧米化の軌跡を示す例として読むこともできる。それは、敗戦の中途半端な反省による伝統の蔑視とアメリカ化(アメリカによる日本文化破壊工作もあった)の結果、軽薄な欧米追従の精神構造が大衆に浸透してしまった戦後の日本を先取りしていたと見ることもできる。それは、私が記憶している追いつけ追い越せの戦後日本でもある。日本人は欧米に追いつき追い越せるという確信を持ったとき、はじめて日本を見直す余裕ができたのであり、伝統文化の見直しや復活が始まったのもそのころであったように記憶している。

欧米の生活様式をエミュレートすることに忙しく、西洋かぶれしていたエリート層には、戦後のアメリカ化を属国化、洗脳と感じる素地はなかったのではないか。ハルはマッカーサーのいわゆる民主化政策をもろ手を挙げて歓迎している。先の戦争のきっかけとされた日本の満州支配を欧米が糾弾したことに対して、欧米が長年やってきたことと同じことをした日本を糾弾するとはという感想が書かれているが、白人文明の優越を信じて疑わなかった白人たちの日本に対する徹底した無知無関心に気が付いても、その裏に見え隠れしていた邪悪な意図、彼らの日本に対する帝国主義的な覇権と征服の意図を正面から見据えようとしていない。読者は、松方ハルの祖父たちが日本の独立を維持するためにあれだけ苦労したのにという感慨を松方ハルと共有することになるが、その先に思いは及ばない。

松方家の人々はGHQの行なった財閥解体と農地解放と公職追放と超インフレーションで富や地位の多くを失ったにも関わらず、そして民主化や報道の自由が表向きのスローガンでしかなかったことがわかった後も、事実が淡々と書かれているだけで、アメリカ/連合国の占領政策に対するハル自身の感想は自分自身に降りかかったことに限定されている。それが歴史的な考察に発展することはない。親しかった近衛家に戦後訪れた悲劇について、親交のあった松方家の人だから知ることのできたエピソードも書かれているが、あの軍事裁判に対する批判も、公職追放に対するコメントもない。ハルは、共産党員であろうとも投獄されていた政治犯がGHQによって釈放されたことはとにかくいいことだと喜び、エリート層には共産主義に傾いていた者も少なくなかったし、ハルの知人の中にも共産党に関係していた人々がいたことが書かれているのみである。

しかしジャーナリストとして仕事をしていたハルの前に立ちはだかった GHQ の言論統制については、怒りを隠そうとはしていないGHQ の言論統制は大本営の言論統制に取って代わっただけだったから日本の新聞社は GHQ の言論統制にも要領よく順応した。それは、あたかも占領軍が存在しないかのように日本のことを説明することであったとハルは述べている。そしてハルはその占領軍に小さな反撃を加える機会を逃さなかった。ハルは危険を承知の上で、日本国憲法がGHQによって書かれたものであることをハルがサポートしていたクリスチャン・サイエンス・モニターの新聞記者に教えたのである。それがアメリカでスクープとGHQその記者をブラックリストに載せて日本への再入国を阻止するという事態に発展した。ハル自信もブラックリストに載せられ、「松方家の恥」となったため占領が終了するまで、ジャーナリストの職から離れることを余儀なくされた
とはいえ、松方ハルにとって、日本を破滅に導いたのは、アメリカやチャイナが言いがかりをつけることができるようなことを行った、欲張りな軍部であり、アメリカ風のやり方やキリスト教は当たり前で望ましいものだった。しかし、輝かしい西洋文明の内包する邪悪な歴史について思いが及ぶことはなかったようだ。一方、日本文化についてはハル自身が認めるようにほとんど知らなかったから、愛着を持とうにも持ちようがなかったという風に読める。そして、それは多かれ少なかれ敗戦後の日本が受け入れた教育の先取りでもあった。

松方ハルは明治の日本をリードした自分の祖父たちに対してゆるぎない誇りを持っていた。この本を出版することによって日本の近現代史の貴重な記録を残し、戦後の難しい時期に駐日アメリカ大使の妻として日米親善にも貢献している。一方で、自分は日本人にもアメリカ人にもなれないという一種の劣等感が胸の奥深くに巣食っていたことも明らかにしている。敗戦後の教育は日本を知らない日本人を作り出してきたが、戦後70年、今日の日本人はそれをどのくらい自覚できているのだろうか。

ただ1つ救われる気がするのは戦前戦中を通して同盟通信の上海特派員として活躍し、戦後は民報新聞を発行していたハルの従弟松本重治の発言である。彼は日本政府がマッカーサーの命令に逐一従っているのを見て、その必要はないのにとコメントしたとある。3代目の松方家の人々は、既に欧米何するものぞという自信と気概を持っていたことが伺えるコメントではある。ちなみに松本重治はGHQの意に沿わない論説を民報に載せた結果、公職追放になっている。

それにつけても、戦後日本の復活と繁栄を支えた民間人の活躍に比較して、日本の政治や外交さらには報道機関があの占領下の傀儡政権のままのように見えるという落差の原因はいったい何なのだろうか。

2015/08/22

「過ちは繰返しませぬ」の心理的意味

広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」と刻まれている。そばに設置されている英文の説明板によると、その英訳は「LET ALL THE SOULS HERE REST IN PEACE. FOR WE SHALL NOT REPEAT THE EVIL」で、主語は「We」つまり我々になっている。日本語では主語が省略されているが、この「我々」とはだれか。





自由主義史観研究会の説明によると、この碑文の主語は誰なのかという論争が碑が建てられた1952年当初からあり、素直にとれば碑を建てた「広島市民」または「日本人」が主語になるから、自虐史観もはなはだしいという意見から、主語は「我々人類」だというこじつけとも聞こえるものまである。以下同研究会の説明を引用させてもらう。

極東国際軍事裁判(東京裁判)のインド派遣判事だったラダ・ビノート・パル博士は、1952年11月5日に原爆慰霊碑を訪れて黙祷を捧げた際に、「この‘過ちは繰返さぬという過ちは誰の行為をさしているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。落した者が責任の所在を明らかにして‘二度と再びこの過ちは犯さぬというならうなずける。この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり、日本を経済封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である」と述べています。また、1956年2月4日、日教組第五次教育全国集会に招かれたインドのセン書記長は、「繰返しませぬではなく、繰返させませんと叫ぶべきだ」と強調しました。」

さて、その碑文を書いた当の本人はなんと言っていたのか。それについても自由主義史観研究会の説明がある。


「この慰霊碑は広島平和都市記念碑として、1952年8月6日に序幕されました。当時の広島市長(濱井信三氏)の依頼で碑文に、この一文(安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから/Let all the souls here rest in peace; For we shall not repeat the evil.)を選び揮毫した英文学者の雑賀忠義(さいかただよし)教授は、前述のパル博士の発言に対して、「広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない」と抗議しました。」

パル博士の議論は誰もがすぐに納得できる。しかし、雑賀忠義教授の議論はわかりにくく違和感を感じる人も多いのではないだろうか。主語が「我々世界市民」だというのは、「僭越」にも原爆を落としたアメリカをも含む全人類を代表してこの碑文を書いたということだ。なぜ雑賀忠義教授は、被害者として謝罪を求めるのでも報復を誓うのでもなく、共犯者としてその罪の一端を引き受けるような表現を選んだのか。それは自虐ではないのか。ここではそれを心理学と宗教の観点から考えてみたいと思う。

被害者心理という観点から見ると、いつまでも加害者を恨み続けるのは精神的な傷をいつまでも引きずることになるので、恨み辛みをばっさり切り捨て、加害者を許すのが、早く立ち直る鍵である。だから、被害者は、加害者の罪を許そうと努力する。そうすることによって道義的に加害者の上に立つことができる。「あんなひどい罪を犯してかわいそうな人たち」という加害者に対する哀れみの感情さえ持つことができるのである。

いつまでもこだわって、そのうち仕返しをしてやろうなどというのは、加害者に残りの人生も左右されることになり、自分を加害者のレベルに落とすことにもなって、心理的には最も不健全な、傷を長引かせるアプローチである。社会的にも、あだ討ちのあだ討ちのあだ討ち。。。という悪循環が断ち切れない。江戸時代の日本人はそのことをよく理解していたから、あだ討ちにはお墨付きが必要だったのである。一方、中近東を始め、日本以外の国々では、あだ討ちのあだ討ちのあだ討ちは悠久の昔から続いていて、誰も止めることができないでいる。

歴史を紐解くと、実は似たような「僭越」な態度を取った宗教的指導者がいた。キリスト教徒が崇めるあのイエス・キリストである。キリストはローマ帝国の支配下にあった中近東に住むユダヤ人だった。キリストは、ローマ帝国から見ると、群集を煽動して騒ぎを起こす反逆者だったから、磔の刑に処されたということになっている。一方、キリスト教の解釈では、キリストは全人類の贖罪のために、進んで処刑されたことになっている。つまり、自分を単なる被害者とみなさないで、自分も人類の一員としてその罪を引き受け、頼まれもしないのに、自分を処刑したローマ人の罪まで背負って、僭越にもその贖罪を神様にとりなしたということらしい。

雑賀忠義教授の態度は、キリストの態度と大差ない、おこがましくも僭越な態度なのである。アメリカにとっても、その他の連合国の国々にとっても、彼らに代わって日本人が「過ちは繰り返しませぬ」などと勝手に宣言するのは、余計なお世話というものである。現実にかれらが、良くぞ言ってくれたなどと日本が代弁してくれたことに感謝しているなどということは一切ない。ローマ帝国だって、わけのわからないユダヤ人の神がローマ帝国の罪を許すかどうかなど全くどうでもいいことだったに違いない。

広島と長崎の犠牲者の死は太古の昔から人類が積み重ねてきた戦争という罪の一つの帰結である。被爆者であってもその歴史の流れから目を背けてはいけないという思いが雑賀忠義教授にはあったのであろう。だからその罪の一端を引き受けて共犯者として「過ちは繰返しませぬ」と誓うことを選んだのであり、自分たちを単なる被害者と捕らえないことによって、それが全人類への贖罪への呼びかけになるという仕掛けなのである。

連合国側は日本を原爆投下という罰に値する極悪非道の戦争犯罪人に仕立て上げたつもりだった。しかし、日本はあの原爆を逆手にとって、「あんたらのためにも「過ちは繰返しません」と誓っておいてあげるけど、いずれはあんたらもここに来て手を合わせなさい」という態度を取ることによって、日本は一方的に悪者扱いされることを拒否した。共犯者のスタンスを取って加害者にその共同責任を問うという関係を作ろうとしてきたと言えるのかもしれない。それが成功したかどうかはまだわからないが、追悼の慰霊祭にアメリカ政府から人が送られてくるようになったのは一定の成果を収めている証拠と言ってもいいかもしれない。

これが「過ちは繰り返させません」では「we shall not let them repeat the evil.」と言うことになって「我々=we」と「やつら=them」という対立を持ち込むことになり、一緒に誓いましょうと誘うわけにはいかなくなる。

ちなみに、キリスト教はローマ帝国下でその勢力を拡大し、最後にはローマ帝国を飲み込んでしまった。歴史は皮肉な展開をするものなのだ(十字軍や植民地での暴虐三昧を見ればローマ帝国がキリスト教を乗っ取って利用したという方が正しいと思うけれども。。。)


2015/07/28

マッカーサーのチャイナ史観

ダグラス・マッカーサーの退任演説を聞いてみた。これは1951年4月19日にアメリカの議会で行われたもので、あの有名な "old soldiers never die; they just fade away." 老兵は死なず、ただ消え去るのみ)で締めくくった演説である。その中で「えっ」と思って、テキスト・バージョンを見て確認した箇所があった。中国に関する次の箇所である。


"China, up to 50 years ago... The war-making tendency was almost non-existent, as they still followed the tenets of the Confucian ideal of pacifist culture." (チャイナは50年前までは。。。まだ儒教が理想とする無抵抗主義の教えに従っていたので、戦争しようという傾向はほとんど存在しなかった。)
つまり、1900年ごろまで、清朝がアヘン戦争に負けて以来、欧米列強の要求に抵抗せずに応じて領土を割譲してきたのを見て、無抵抗主義だと思ったのかも知れない。だから清朝が1894~1895年の日清戦争に負け、1912年に権力を失った後、動乱のチャイナで抗日運動が激しくなり、日本とのいざこざが起きるようになったとき、欧米の目には、日本がよっぽど悪いことをしているに違いないと見えたのかもしれない。属国でしかないと思っていた日本に負けたことが許せないなどという感情がチャイナ側にあったことなど思いもよらないことに違いない。

これ一つだけとっても、マッカーサーは明らかにチャイナの歴史については限られた知識しかもっていなかったと言える。紛争の深い歴史的背景を分析することは、軍のリーダーの仕事ではないのであろうが、マッカーサーは本当にチャイナは日本という残忍な侵略者にいじめられた無抵抗な被害者だったと信じていたのであろうか。"GI Roundtable: What Shall Be Done about Japan after Victory?"(米兵円卓会議:勝利の後、日本をどうすべきか) という日本占領に向けて米軍を教育するために書かれたパンフレットには「Rape of China」とか「チャイナが日本によって奴隷化される」という表現が使用されていて、日本軍がチャイナの老若男女に極悪非道の限りを尽くしていると説明されている。アメリカ政府は、本当にそれを信じていたのだろうか。中国におけるアメリカの情報収集能力はそんな程度だったとはとても信じられないが、軍や一般米国民には中国のプロパガンダに沿ってそう宣伝し、日本軍と政府の指導者を戦犯として処刑するためのセットアップとして使ったのであろう。


マッカーサーはさらに続けて、"Through these past 50 years the Chinese people have thus become militarized...has become aggressively imperialistic, with a lust for expansion and increased power normal to this type of imperialism." (過去50年間で、チャイナの人々は軍国化し、、、侵略的帝国主義的になった。この種の帝国主義には普通の拡張と権力増強への欲望をあらわにしている。)これが、朝鮮戦争でチャイナに痛い目にあわされたマッカーサーの観察であり結論だったのである。その後、チャイナ共産党の「普通の拡張と権力増強への欲望」がチベット、内モンゴル、ウイグルで、さらには文化大革命や天安門事件でどのように発揮されたかは記憶に新しい。日本人なら、それが50年間で一夜にして出現した傾向だなどと思う人はいないだろう。チャイナは太古の昔から、遊牧騎馬民族が作った一連の大帝国に次々に乗っ取られ、そのたびに熾烈な戦争に巻き込まれてきた、いわば、帝国ずれした民族であることは、日本人ならだれでも一応の知識を持っている。マッカーサーはモンゴル帝国も大清帝国も知らなかったのだろうか。


チャイナをのっとた支配者にとって、近隣のアジア諸国は、日本も含めて、属国または潜在的な属国に過ぎなかったし、今でもそう思っているふしがある。白人の植民地主義者と戦ったことのないアジアの国はチャイナだけだというのも、その辺の歴史が関係していると思われる。つまり、チャイナはアジアで唯一の植民地主義帝国だったから、白人の植民地主義者と組んで生意気な日本をつぶすことが将来チャイナにとって利益になると理解していたのではないか。戦後70年経った今振り返ってみると、チャイナは自国を欧米の半植民地と見て白人の植民地主義者と戦うのではなく、日本にアジアの盟主としての地位を奪われないために、つまり自国の植民地主義帝国としての地位を復活させるために白人の植民地主義者と手を組み、日本つぶしに利用したということになる。


一方、日本は1500年余の天皇統治の歴史をいくらさかのぼっても植民地を持った形跡がない。唯一の例外は、第一次世界大戦の戦勝国として統治権を委託された南洋諸島(敗戦国のドイツの植民地だった)だけである。しかも、日本は植民地支配を嫌って、正確には南洋諸島を信託統治という形で引き受けたのである。台湾も朝鮮も日本になったのであり、植民地ではなかった。アラスカやテキサスがアメリカになったのと同じである。満州国は日本の保護の下に清王朝が再興した独立国だった。1952年に独立した日本が未だにアメリカ軍に保護されているのと少しも違いはない。

マッカーサーは退任演説の二週間後に上院軍事外交共同委員会で朝鮮戦争関連の証言を行っている。そこでは、『日本をどうすべきか』パンフレットに書かれている日本=侵略者という見方を踏襲しないで、あの戦争は日本にとって安全保障のためだったと次のように証言している。

There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack great many other things, all of which was in the Asiatic basin.
They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore in going to war was largely dictated by security.
(蚕を除けば、日本原産のものは実質的に何もありません。彼らにはウールがない、綿がない。石油製品がない。スズがない。ゴムがない。彼らにはアジア地域に存在するその他多くの物がないのです。彼らは、それらの供給が断たれた場合、日本では1千万から1千2百万の人々が失業するだろうと恐れていました。したがって、戦争に突入したのは、主に安全保障(security)上の必要に迫られてのことでした。)
朝鮮戦争でチャイナとソ連に痛い目に合わされて、見方が少し変わったのかもしれないが、アメリカにはチャイナの歴史について、もっと掘り下げた理解をしてもらわないと、日本に対する誤った見方も改まらないのではないか。これは日本にとって厄介なことだけど、欧米諸国の日本に対する政策や態度は、彼らがチャイナの日本に対する態度とその真意をどう理解するかに左右される。

2015/07/17

大日本帝国が帝国になりそこねた理由:ロジスティクスとシーレーン

NHKスペシャル【ドキュメント太平洋戦争 第1集 大日本帝国のアキレス腱 〜太平洋シーレーン作戦〜】を見た。1992年12月6日に放送されたものだとある。太平洋シーレーン作戦というのは、日本の作戦ではなく、それを封鎖したアメリカの作戦である。日本は制海権も制空権も維持できなかったばかりでなく、それを維持するための作戦らしい作戦も立てていなかったらしい。それに対し、大西洋でドイツの潜水艦(Uボート)に悩まされていたアメリカは、真珠湾攻撃から2年で体制を整え、潜水艦と空母と高性能レーダーで日本の生命線であったシーレーンを封鎖して、日本の統治領域を分断し、海上輸送能力を破壊し尽くして兵糧攻めにしたあげく、徹底した爆撃で日本の都市という都市を破壊したのである。


ドキュメント

経済封鎖に対抗するために自給自足可能な大東亜共栄圏という経済ブロックを構築するのが目的だったはずなのに、肝心要のシーレーンを無防備のまま放置し、それを維持するための戦略を研究していなかったとは、なんという間抜けか。

そして、今チャイナがその同じシーレーンを、南沙諸島と台湾と尖閣諸島の空と海をコントロールすることによって、自在に封鎖できる態勢を着々と進めているにもかかわらず、新聞社の世論調査によると、日本国民の過半数が日本の安全が脅かされていることも集団安全保障の必要性も理解できずにいるらしい。その新聞社自体が、集団安全保障などやったら戦争に巻き込まれて自衛隊員が殺されるなどというピントはずれの屁理屈で反対し、シーレーンの確保など全く眼中にない様子だ(新聞社はチャイナの回し者だと考える以外に説明のしようがない)。

どうやら日本国民は先の戦争の失敗から何も学んでいないようだ。なぜか。一つ思いついたことは、日本には大帝国を運営した経験がないからではないかということだった。大帝国を上手に運営して繁栄させるには、全体を有機的に統合する必要がある。それには、物資や人材を必要なときに必要な場所に移動するロジスティクスが非常に重要である。これはローマ帝国時代から認識されていたことであり、「すべての道はローマに通じる」と言われていたように、ローマ帝国は交通網の整備に力を入れていた。

ところが、日本は行き当たりばったりの現地調達が原則だったようにしか見えない。海上輸送能力を失ったあとは、現地調達しかできなくなったのは理解できるが、それ以前はちゃんとやっていたのか。日本語では補給とか兵站とか後方支援とかいう概念があるが、ロジスティクスが示唆する緻密な計算というニュアンスが感じられない。日経ビジネスの『素人は「戦略」を語り、プロは「兵站」を語る:第2次世界大戦はグローバルロジスティクスの闘いだった』という記事によると、その重要性が全然認識されていなかった。

この点については「アジア太平洋戦争と東南アジア」という講演会の内容をまとめた文書 が参考になる。「この問題を考える際にスタートとなるのが、開戦の三週間前に大本営政府連絡会議で決定された「南方占領地行政実施要領」です。そこで治安の維持、 資源獲得、 現地自活という、 いわゆる軍政三原則を謳った要綱が決定されます。」ということで、明らかに現地調達が原則。グローバルなロジスティクスというようなものは考えられていなかったのである。現地で足りないものはどこから補給するかという計画がないまま、現地の資源を日本の必要のみで「調達」して、現地の住民や捕虜はもとより最後にはシーレーンを封鎖されて海上輸送能力を失い、現地の日本軍でさえ飢え死にする事態になっていった。その辺のことは愛国リベラル史観」さんの次の文章によくまとめられている。

「アジア解放の正義の戦争」をしていたはずの日本軍は、フィリピンで住民の抗日ゲリラに終始悩まされていたし、最初は親日的だったインドネシアやビルマでも、結局は反日闘争が展開されるようになった。そこから見えてきたのは以下の構図だ。

『補給を軽視し“現地調達”を原則とした大本営→食糧を日本軍に奪われ、働き手を基地建設などにかり出される地元民の不満→軍票(日本が作った現地通貨)乱発で超インフレ→約束していたはずの独立もない→これなら欧米の支配の方が良かった→反日運動を憲兵が弾圧→反発を抱いた急進派が抗日武装蜂起→日本軍が反乱指導者を逮捕・処刑→住民の怒りが爆発、全国規模の抗日ゲリラが誕生→ゲリラは一般住民に紛れ込んでいるので疑心暗鬼になった日本軍の一部が住民虐殺→ゲリラと連合軍が連携して日本軍に抵抗』

"GI Roundtable: What Shall Be Done about Japan after Victory?"(米兵円卓会議:勝利の後、日本をどうすべきか日本語訳) という日本占領に向けて米軍を教育するために書かれたパンフレットには、「日本が植民地の統治者として失格者であることは否定できません。日本人は軍服を着て植民地の人々を相手にするとき最悪の悪人になります。朝鮮でも満州でもチャイナの占領地でも、日本人は人々をこき使い恐れられ嫌われています。」と、中国のプロパガンダを鵜呑みにしたことが書かれている

東南アジアについても賠償の義務があるとし、「チャイナ、フィリピン、オランダ 領東インド、ビルマ、およびマラヤでは、何百万人もの一般人が、負傷し、窃盗され、家を追い出され、殺されました。」と、あたかも、日本がすべての地域で 現地人に戦争を仕掛け、虐げ略奪していたかのように書いてある。それは白人やシナ人が植民地統治の中で行ったことであり、その罪を日本になすりつけているに過ぎない。イギリス兵と違って、アメリカ兵が戦ったのは主にフィリピンを始めとする、日本空爆への足場となる島々だ けだったから、ほかの地域で日本軍がひどいことをしたと言われれば、日本人は残忍だと聞かされていたから信じるしかない。しかし、インドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ 会議で明らかになったように、シナ共産党と南北朝鮮以外の国々は、日本のおかげで戦後独立できたと、日本に感謝こそすれ、日本にひどい目に合わされたなどと文句を言っていない。

大陸には大帝国が少なくともギリシャ、ローマ時代にさかのぼって存在したが、島国が帝国になるには海運力が不可欠である。島国のイギリスが7つの海を支配する大帝国になれたのは、航海技術が発達して地球一周が可能になってからである。

それでは、島国日本の場合はどうか。イギリスおよび西ヨーロッパ諸国が7つの海に乗り出し、植民地を使って富を蓄えていた頃、つまり、16世紀後半から20世紀初頭までは、日本では戦国時代から大正時代に相当する。当初、日本では国外に勢力を伸ばす動きとして、イギリスの海賊に匹敵する倭寇がアジア一帯の海岸を荒らしまわっていたことが知られている。東インド会社が設立された17世紀初頭には、豊臣秀吉がシナ大陸の征服を考えていた。これが、記録に残っているものとしては、日本が帝国を夢見た最初ということなるが、本腰を入れて取り組む者がいなかったためか、朝鮮半島まで出かけていってすぐにあきらめた。結局は満州を本拠地とする女真族のヌルハチがシナ大陸を制圧して清王朝を打ち立て、モンゴル、チベット、東トルキスタンを勢力下に入れた大清帝国を作った。一方、日本は方向を180度転換して、鎖国し、外国との行き来を最小限にまで制限して、外の帝国主義や植民地主義の付け入る隙を与えなかった。

しかし、19世紀になって蒸気船が開発され、世界の海が狭くなってきた19世紀の後半、日本は外からの帝国主義や植民地主義の圧力を鎖国によって跳ね返すことができなくなったことを知る。ここでまた180度方向転換して、欧米やチャイナの帝国主義や植民地主義の向こうを張って、富国強兵に邁進する政策に転じ、国防のためとあらば国外に出かけて行って戦争も辞さない普通の近代国家になった。

まず、地理的に近いロシアからの圧力を押し戻すのが急務であった。1894~1895年の日清戦争は朝鮮に足場を築こうとしていたロシアを清が容認していたいたために、清から朝鮮を取り上げるために行われた戦争である。このとき日本は清から台湾と遼東半島も取り上げている。このとき日本が帝国主義的拡張を意識していたかどうかははっきりしない。結局、下関条約に基づき日本に割譲された遼東半島は、ロシア、ドイツ、フランスによる三国干渉によって清に返還させられ、その後ロシアは遼東半島と満州に勢力を伸ばしたので、ロシアの南下を阻止するという目的は中途半端で終わってしまった。

1904年の日露戦争は三国干渉によって南下に成功したロシアを押し戻すための戦争だった。日本は大英帝国とアメリカの協力を得て、日露戦争でロシアを押し戻すことに成功し、さらには樺太の南半分と満州鉄道の利権を手に入れることとなった。それが帝国への足場を築いたといえるかもしれない。第一次世界大戦では戦勝国になったため、ドイツの支配下にあった南洋諸島の統治を委任され、一気に統治領域が広がって、帝国の体裁が整った。このとき日本はまだ統治下にあった外地から資源を調達する必要に迫られていなかったから、現地の住民の福祉に配慮する余裕があった。

第一次世界大戦後は、戦争で疲弊したヨーロッパ諸国に比べて無傷だった日本からヨーロッパ復興のための物資が大量に輸出され、日本の台頭は、軍事的にも経済的にも誰の目にも明らかだったに違いない。さらに唯一の有色人種の国として列強の仲間入りした日本は、第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において人種差別の撤廃を提案した。これは黒人差別を温存し、中国人や日本人の移民を黄禍と呼んでいた白人の日本人に対する警戒心を一層高め、特にアメリカの神経を逆撫でした。時は大正デモクラシーの真っ只中、1919年のことだった。

このとき日本は一歩下がって、世界の情勢と日本の立ち位置を詳細に分析するべきだったように見えるが、復興特需景気に浮かれていただけだったのか。その景気も長くは続かず、1923年には関東大震災に見舞われ、景気が停滞する中、1917年のロシア革命に触発されて共産主義や社会主義も広まり出した。1927年には金融危機に見舞われて多くの銀行が倒産し、1928年には第一回の普通選挙による衆議院議員の選挙が行われたが、政党政治もヨチヨチ歩きで頼りにならない中、翌年の1929年にはアメリカで大恐慌が勃発し、その影響が世界中に波及すると、各国が経済ブロックを作ってブロック内の保護貿易で不況からの脱却を図った。

ブロック内(統治領域内)で自給自足できる体制になかった日本は、満州を保護国としてブロック内に取り込むことで景気を回復していったが、それを危険視した欧米とチャイナは国際連盟を通して日本に圧力を掛けてきただけでなく、米国でもチャイナでも排日反日運動エスカレートしていった。1930年から第二次大戦が始まった1940年までの10年間は、満州事変を皮切りに日本が大陸にのめり込む一方で、日本人に対する乱暴狼藉が頻発し、大陸での日本人や日本軍に対する中国人の馬賊や軍賊さらには国民党と名乗る暴徒や兵隊の攻撃が頻繁になっていった。主なものに、尼港事件(1920)、南京事件(1927)、済南事件(1928)、上海事変(1932、1937)、通州事件(1937)、などがあるが、小規模の暴力沙汰を含めると何百件にも上るという。(ねずさんのひとりごと:済南事件とその遠因通州事件まとめブログなどを参照)

米国では白人以外の移民・帰化を制限する法律が1800年後半か制定されてきたが、日本人移民を完全に禁止する Exclusion act (いわゆる排日移民法)1924年に制定されて、勤勉な日本人に対する警戒心を裏返しにした反日プロパガンダはエスカレートする一方だった。

ウィキペディアの「仏印進駐」によると、1940年6月にフランスがドイツに敗北したのを機会に、日本はフランス領インドシナを経由する援蒋ルートの封鎖に乗り出した。1940年9月23日に北インドシナに進駐し、それと相前後してドイツおよびイタリアと三国同盟を結んでいる。欧米列強は、富の源泉である東南アジアの植民地を日本の自由にされていはたまらないから、状況はエスカレートし、ABCD包囲網でアメリカ、イギリス、チャイナ、オランダは日本に対する経済封鎖を強化し屑鉄や銅など日本への輸出を制限し出した。

日本は経済制裁に対抗して、1941年7月始めに、それらの資源をアクセスしやすい南インドシナに進攻する決断を下し7月末に実行した。それで状況は一挙にエスカレートして、アメリカは日本を兵糧攻めにするために石油禁輸を決定した。石油の全面禁輸が実行されたのは、1941年の8月1日だった。日米間の交渉はいっこうに進まず、追い詰められた日本はこの年の末、12月8日にハワイの真珠湾攻撃を皮切りに次々と東南アジアに侵攻し、資源確保の拠点となる東南アジアから植民地を警護していた欧米の軍隊を駆逐していった。先に引用した「南方占領地行政実施要領」はこのときのために作成されたものであり、帝国運営の経験のなさが露呈しているといえるものだと思う。

1889年に発布された明治憲法は「大日本帝国憲法」と名づけられているから、帝国志向はそのとき既に存在していたことになる。しかし、実際に外交文書で「大日本帝国」という呼称が使用されるようになったのは、第二次世界大戦に向かって世界が激動していた、昭和11年(1935年)からだというから、明治憲法の「大帝国」というのは、憲法作成に当たって手本にしたヨーロッパ諸国に習っただけなのかもしれない。

実は、日本人には大帝国になろうという野心はなかったのではないだろうか。ただただ襲い掛かる脅威に対応するのに忙しく、気が付いてみると、世界の列強を敵に回すという厳しい環境の中で、大東亜共栄圏なる大帝国の運営という未経験の大事業に乗り出してしまっていたのではないかと思う。

今の日本はというと、民間の企業をみれば、世界をまたに掛ける多国籍企業が、かつて果たせなかった大帝国の夢を実現している様に見えるが、政治外交軍事レベルでは「あつものに懲りてなますを吹く」状態から抜け出していないように見える。この落差を放置しておくとどういうことになるのか。民間企業はこの状態をどう見ているのか。民間企業はシーレーンの確保にどのような政治的働きかけをしているのか。

世界中からいわゆる植民地が消えた今、帝国は過去のものになったといえなくもない。かつての帝国が植民地の資源と市場の直接支配で栄えたのに対し、今日の帝国は金融支配、つまり投資からの収益と貸付への利子で栄えているともいわれている。しかし、資源の奪い合いが終わったわけではない。グローバル金融資本の支配下にあると言われているアメリカが中東の石油利権を狙ってイラク戦争を仕掛けたのは2003年のことであり、今も続いているイランに対する制裁はイランが1951年に石油利権を石油メジャーから取り上げ国有化したのがきっかけだった。投資からの収益を保障するには、資源の価格をコントロールする必要がある。

日本の商社等が主要資源に対する利権をどの程度抑えているのかは知らないが、日本は資源外交に神経質にならざるをえない状況におかれているはずである。しかし、それに対する国民の関心が低いのは、やはり大帝国の運営という視点を持ったことがないからなのかもしれない。2011年の東日本大震災の後、そしてタイの洪水の後、自動車業界はサプライチェーンの見直しを余儀なくされた。しかし、その議論は他の重要な資源、特に食料と燃料のサプライチェーンの真剣な見直しには結びつかなかったように見える。東南アジア、豪州、中東、欧州との貿易には中国寄りのシーレーンが重要になる。今でも海賊に悩まされているが、非友好国の軍隊が邪魔をするようになったら始末に終えない。中国はその意思があることを既に十分に言動で示している。

サプライチェーンは、物を物理的に動かせることを前提にしている。それには、シーレーンと海運力の確保が不可欠である。そして、シーレーンの確保には制空権と制海権が不可欠である。そしてそれには、いまのところ、阿部首相のアジアの民主主義セキュリティ・ダイヤモンド構想を頼みにするしかないが、日本では全く話題になっていないと言う。何とも心細い限りである。

2015/07/14

先の戦争におけるアメリカの戦略をまとめたパンフレット: 『勝利の後、日本をどうすべきか』

What shall be done about Japan after victory? 
American Historical Association. 
[Madison, Wis. : USAFI, 1945] 

PDF版:日本語(筆者訳)+英語原本 
注意:ブラウザによっては、右クリック・メニューのリンク先の保存を使用してダウンロードする必要があるかもしれません。


このパンフレットは日本の敗戦が明らかとなっていた19456月にアメリカ軍を日本占領に向けて教育するために出版されたものです。「各パンフレットの目的はただ一つ。問題をすべての観点から討論するためのたたき台として、事実関係の情報とバランスの取れた議論を提供することです。」と書かれていますが、日本の観点からは事実誤認、歪曲、曲解、偏見、こじつけなどが少なくないと思われます。それらが当時の米国内のさまざまの勢力の状況認識を反映したものだったのか、公式見解だったのか、米軍向けのプロパガンダだったのかはわかりませんが、全体を通して、日本人あるいは日本の軍部がアジアの平和を乱した諸悪の根源であり、彼らをたたきのめして二度と刃向かえないようにするのが人類のための正義であるという論調が貫かれています。それは、敗戦後に占領軍が実施した War Guilt Information Program (日本はなぜ侵略史観・自虐史観を押し付けられたのか を参照)1000人を超える軍と政府のリーダーたちを戦犯として処刑した極東軍事裁判でも貫かれていたナラティブであり、残念ながら今でも世界の大部分で「正史」として受け入れられているものと思われます。

日本の観点からの正しい歴史を世界と共有するには、このパンフレットをたたき台にした小冊子を英語で出版するのも一案かもしれません。

ちなみに、このパンフレットを作成したアメリカ歴史協会のアーカイブ・サイトには、その作成過程に学者、ジャーナリスト、国務省、CIAの前身であるOSSなどが関係したと書かれています。詳しくは、次のサイトを参照してください。


2015/06/03

日本はなぜ侵略史観・自虐史観を押し付けられたのか

Japanese War Guilt Information Program (日本のやった戦争は犯罪であるという嘘を日本人の間に浸透させる工作)をネットで検索したら出てくるのは日本人が書いたと思われるものばかりだった(この工作の存在を証明するアメリカの公文書についてはこちらを)。しかし、関連のキーワードへの部分一致で引っかかった文献に面白いものがいくつかあった。

その1つは "GI Roundtable: What Shall Be Done about Japan after Victory?"(米兵円卓会議:勝利の後、日本をどうすべきか) という日本占領に向けて米軍を教育するために書かれたパンフレットである。アメリカ歴史協会がまとめて、終戦前の1945年6月に出版したとある。これはアメリカの日本に対する戦後処理、占領政策の概要とその歴史的背景を軍人にわかりやすく解説したもので、アメリカがどんな作戦と政策を考え、どんな前提と想定とこじつけで、戦場しか知らない軍人たちにそれを納得させようとしていたかが手短にわかる貴重な資料だ。

これを読んだときにすぐに思ったことは、この文書は日本が悪者であるというプロパガンダを世界中に定着させるために使われた「元本」だったのではないかということだった。連合国(アメリカ、中国、ソ連、イギリス連邦、フランス)と反日勢力がこぞって口裏を合わせていることから推察すると、この文書または類似の文書が日本だけでなく世界中に配布されたに違いない。少なくとも、公職追放の対象になった日本のメディア、教育界、行政組織は、類似の文書をガイドラインとして渡されたのではないかと思わせるに十分な内容のものである。これを読めば、彼らがなぜいわゆる自虐史観とか侵略史観で日本人を洗脳する必要があると考えたのかがわかる。それは、自分たちの悪意と悪事を棚に上げるためのハッタリであり、彼らが戦争を仕掛けてきた本当の理由、日本を丸裸にして属国化し、二度と白人様に刃向かえないようにして、徹底して自分たちの都合のよいように利用し、搾取するためであったことが透けて見える。

1931年の満州事変が戦争の始まりであるとするこのパンフレットは、満州をシナから奪ったのはシナ領土の変更を禁止する1922年の9カ国条約に違反するとし、日本が 1937年にシナ事変でシナに軍隊を派遣したのは自衛ではなく侵略だ、従ってパリ平和条約に違反するとして(シナにいる日本人がどれだけ攻撃されていたか、蒋介石が停戦条約を破ったこと、アメリカは既にシナ大陸とその周辺で日本攻撃に加担していたこと、などは一切無視)、日本を侵略者、無法者と決め付けている。しかし最後には、そのような国際条約が締結される前からあった台湾と朝鮮と北方領土、信託統治領だった南洋諸島を日本から取り上げる理由として、「日本は植民地の統治者として完全な失格者だ」(残虐で極悪非道の人種差別主義者)と決め付けて正当化している。さらに、アメリカは1941年8月の大西洋憲章で領土の拡張を求めない、住民の望まない領土の変更も求めないと言っておきながら、そのような手続き無しで日本の統治下にあった地域を、南洋諸島を除いて、ことごとく日本から切り離してシナとロシアにくれてやったのである。日本の信託統治領だった南洋諸島は軍事的に重要だからアメリカが取る、国際連盟で決めたことだが連合国で作った国連で決議して日本から取り上げれば問題ないと言う。そして最後に、領土の剥奪について文句があるならカイロ宣言を受け入れた軍部の責任だと言ってやればいいという文章を読んだときは、読み違いではないかと思って何度か読み返した。北方領土についてはソ連がこの戦争に協力するかどうかで決まると書いてある。

日本の膨張主義と残虐非道なやり方は見過ごせないという道義的な理由を前面にもって来るこの議論は、イラク侵略の本当の理由(中東産油国を支配下に置く)を掲げずに、ありもしない大量殺戮兵器の存在を理由にしたのと同じ手口である。本当の理由を言 えば、一般の米国民がアメリカの実質的な支配者(金融軍産共同体)の利益のために多大の犠牲を支払わされたことが明らかになってしまう。一般の米国民に対しては、白人の優越性、白人帝国による世界の支配が正当であり必然であることを示すだけで十分であった。

日米戦争の背後には、アメリカに日本を潰させ、その混乱に乗じて日本で共産主義革命を起こし、共産主義を標榜する独裁政権に日本を乗っ取らせる計画を立てていたコミンテルンがいたということも明らかになっている。シナ人に対する日本軍の残虐行為に加担するな、世界制覇を目指す侵略国家日本は世界の敵だ、を合い言葉に、日本を経済封鎖で追いつめて挑発したのは、親共のルーズベルト政権だった。しかし、その背後で、アメリカ人の反日ムードを煽るための大掛かりなプロパガンダ・キャンペーンが展開されていた理由を、日本人は正確に把握していなかった。それがコミンテルンの陰謀だったということは、戦前からのソ連の暗号通信を戦後に解読したVENONAプロジェクトで明らかになった。ゾルゲと尾崎を首班とするソ連スパイの一味が日本で逮捕されたが、アメリカでの反日運動にまでは結び付けることができなかった。

このパンフレットには、日本のWar Load(軍閥)によるRape of China(シナのレイプ)という表現が使われている。実際には、シナの軍閥が「無抵抗なシナの老若男女を大量虐殺した」だけでなく、無抵抗な日本人の老若男女を虐殺していた(日本はシナに軍人を派遣していたが、山賊まがいの軍閥を派遣したことはない)。通州事件、盧溝橋事件、上海事件などが有名だが他にも無数にあった(通州事件から学ぶべきことを参照)。アメリカのフランクリン・ルーズベルト政権は、蒋介石および共産党(コミンテルン)と組んで、日本軍をシナでの戦闘に引きずり込むために上海事件に至る一連の日本人虐殺を支援し、日本を連合国との太平洋戦争に引きずり込むために、シナ事変の翌年にはABCD包囲網による経済制裁を開始して、日本を挑発した。アメリカの一般国民はそれに先立って、既に徹底した反日、排日プロパガンダによって洗脳されていたから、日本人に対する侵略史観・自虐史観の押しつけは、アメリカ人に対する反日プロパガンダで捏造された歴史をそのまま日本人に受け入れさせるために行われた洗脳だったともいえる。

日本は正当な手続きで統治権を確立していた領土を、国際条約を無視したアメリカとソ連とシナに武力と詭弁によってごっそり持っていかれたのである。しかも、侵略史観・自虐史観による洗脳によってそのことをすっかり忘れさせられてしまっているのである。もっとも、天皇皇后両陛下のパラオ慰霊訪問は、日本の象徴として歴史を俯瞰している皇室はそのことを決して忘れていないことを示している。

さらに、アメリカは日本がシナ市場を独占しようとしたと糾弾するばかりでなく、シナを被害者に仕立て上げて、シナへの賠償という形でシナを介して日本の富を吸い上げる口実を作っている。シナを手に入れるものは世界最大の植民地を手に入れる と考えて、シナをめぐって Open Door (門戸開放) を提唱してきたアメリカは、ようやく日本を追い出して白人陣営によるシナの独占という夢を実現できるばかりでなく、シナを介して日本の富を吸い上げる口実までできたと舌なめずりしているのである。シナは戦前戦中を通じてそのようなアメリカを手なずけるために被害者プロパガンダを発信し、韓国は戦後新しい支配者となったアメリカの歴史認識に追従して日本の統治下でひどい目にあったと言っている のに過ぎないと理解できる。

賠償はシナだけでなく、日本が資源獲得のために真珠湾攻撃に続いて侵攻した東南アジアについても賠償の義務があるとし、「チャイナ、フィリピン、オランダ 領東インド、ビルマ、およびマラヤでは、何百万人もの一般人が、負傷し、窃盗され、家を追い出され、殺されました。」と、あたかも、日本がすべての地域で 現地人に戦争を仕掛け、虐げ略奪していたかのように書いてある。それは白人やシナ人が植民地統治の中で行ったことであり、その罪を日本になすりつけているに過ぎない。イギリス兵と違って、アメリカ兵が戦ったのは主にフィリピンを始めとする、日本空爆への足場となる島々だ けだったから、ほかの地域で日本軍がひどいことをしたと言われれば、日本人は残忍だと聞かされていたから信じるしかない。しかし、インドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ 会議で明らかになったように、シナ共産党と南北朝鮮以外の国々は、日本のおかげで戦後独立できたと、日本に感謝こそすれ、日本にひどい目に合わされたなどと文句を言っていない。

シナも韓国も日本から金をかすめ取ろうとしているときに歴史問題を声高に叫んできたという水間政憲氏の分析が示すように、自虐史観とか侵略史観は日本人に罪の意識を植え付けて弱腰にするために使われてきたのは明らかである。しかし、日本国民の大多数が正しい歴史認識を持てば効力が薄れることは自明である。その効力が薄れないように、世界中に反日意識を植え付けようとしているのが今日のシナの「歴史を直視せよ」キャンペーンである。台湾や南洋諸島の人々が、執拗な反日洗脳教育にさらされたにも関わらず、親日の姿勢を保っているのを見れば(『大東亜戦争とは何だったのか』を参照)、日本人がいかに意気地なしで不勉強か、シナ人や朝鮮人そして反日欧米人が、またいわゆる反日日本人がいかに邪悪な反日工作の一環を構成しているかがわかる。


表紙を見ただけでも腹が立つ。日本を「丸裸にする」意図が象徴的に表現されている。

読めば読むほど腹が立ってくるが、とりあえず目次と、各章の要約を書いておく。詳しい翻訳は英語の原文と共にpdfファイルで用意したので、ダウンロードしてご一読いただきたい。

侵略史観・自虐史観の嘘と欺瞞とその背景にある邪悪な意図の解明は、既に多くの方々が長年に渡って行ってきた。インターネットで検索すれば、すぐにわかる。しかし、それらを、このパンフレットの虚偽と歪曲を整理し、論破する作業と、それを英語で発信する作業も既に始まっている(例: 【Questioning Japanese History】 "The Truth About Japan in WWII" by Mad MonarchistThe “Nanking Massacre” was a historical event fabricated by the US and China)。
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GI Roundtable: What Shall Be Done about Japan after Victory?米兵円卓会議:勝利の後、日本をどうすべきか)    

    Why did Japan choose war? 日本はなぜ戦争を選んだのか(侵略戦争は日本のビジネスだった)
    Did Japan have to go to war for economic reasons? 日本は経済的な理由で戦争したのか(満州を取ったじゃないか。日本は欲張りだっただけ)
    Could the United States have avoided a showdown? アメリカは衝突を避けることができたか(日本のご機嫌を伺ってシナが奴隷化されるのを見過ごすことはできない)-戦争の真の原因はシナ/共産党であり、アメリカはシナにそそのかされていたことがこのパンフレットの説明からも透けて見える(フーバー大統領の Freedom Betrayed (裏切られた自由)を読んでを参照)
    What should we do when Japan has been defeated? 日本を負かしたら何をすべきか(以下の達成を目指す。1.日本が二度と戦争できないようにしてやる。2.奪った領土はすべて剥奪する。3.連合国の国民に対して行われた無法行為や人道に反する行為の責任者を裁く。4.日本の経済は世界の害にならないよう、東アジアの人民の役に立つようにする。5.日本人には近隣諸国を脅かすことのないように自らを統治することを学ばせる)
    How can we keep the Japanese from future aggression? 日本が将来攻撃してこないようにするには(戦争ができない状態にする。戦争をしたがらないようにする。日本人はすべての苦しみをアメリカのせいだと考え強烈な報復心をもつだろうから、完全武装解除と占領。以前は戦火を免れてきたがこの戦争では本土に戦火を持ち込み、思い知らせてやる。軍からは武力だけでなく威信も剥ぎ取る。カイロ宣言の無条件降伏を受け入れた軍部が悪いってことにするか。徴兵制度を廃止させて武力を持てないようにするか。武器をすべて取り上げて破壊するか。日本を侵略占領せずにこの目的を達成できるか。必要な占領期間は? 天皇はどうするか。)
    Should Japan pay damages? 日本は賠償すべきか(再建に必要な労働力を出させる。満州や日本にある機械類
日本が盗んだものだから賠償に含める。)
    Can Japan pay damages? 日本は賠償能力があるか(
道義的にはシナに賠償する義務があるが、厳しい賠償要求は恨みを買うし、世界経済にも悪影響を与えかねないのでほどほどに。金や通貨では世界の金融市場に悪影響を及ぼしかねないので、物で払わせる。シナは英米で凍結されている日本の資産をよこせと言っている
    Can we find a punishment that fits the crimes? 日本の犯罪に見合った罰を見つけることができるか(国民全員が戦犯だが、敗戦と侵略が彼らへの罰。戦争に関する国際法に違反した連中、
特に無抵抗なシナの老若男女を大量虐殺した連中を洗い出して裁く。ナチに適用した方法を日本にも適用して、現地に送って裁かせる。極悪人に対しても報復のリンチはよくない。連合軍のコミッションに調査と裁判と刑の執行を任せる。それにもナチに適用した方法を使う。)
    Shall we destroy Japanese trade and industry? 日本の商工業を破壊すべきか(アジアと世界のためを考える。報復心にとらわれてはいけない。日本に経済再建を許すか。第一次大戦後のドイツの二の舞にならないようにするには?、重工業の規制?、でもシナの再建には日本の工業製品が必要。)
    What sort of government for postwar Japan? 敗戦後の日本にはどんな政府を持たせるか(現在の日本政府は倒す。自由、平和、民主主義の政府ならアメリカ人も安心できる。戦前に芽生えていた民主主義を再生させるか。天皇はどうする。天皇は占領後の法と秩序の維持に役立つかも。天皇には開戦を承諾した責任があるか。特権階級ではなく労働者と農民のための政府ができるようにするには?日本の政治と教育の改革。軍国主義政権に弾圧されていた反戦主義者=善良な日本人を登用する。ハワイの日系人を使うか。改革を強要したらどうなるか。協力者が裏切り者とみなされたら?占領から解放されたら元の木阿弥になるか。日本を完全に破壊して占領し降伏させてしまえばどうにでもなる。民主主義は押し付ければ機能すると言うものではないので軍事力で対処する。)

    Can Japan get in step with a peaceable world? 日本は平和な世界に歩調を合わせることができるか(日本人が非日本人に対して持っている人種差別と偏狭な敵愾心を拭い去ることができるか。日本は植民地の統治者として完全な失格者だ。朝鮮、満州、中国で日本人は人々をこき使い恐れられ嫌われていた。捕虜や囚人の取り扱いで、その残忍性と人を欺く性向を証明したではないか。平和と順法の精神を証明するまで仲間に入れてやらない。)
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各種国際条約の文言を見ると「aggression=攻撃=侵略」は違反だが自衛のための戦争はいいということになっている。したがって、「aggression」が成立しなければ、日本領土の没収も賠償も成立しない。つまり、日本に対する侵略者、国際条約を守らない無法者、さらには残虐非道の狼藉者というレッテル貼りが成功しなければ、腹いせにリンチに等しい裁判で日本の軍人と政治家を殺害し、日本が明治維新以降新しく統治権を確立したすべての領土を味噌も糞も一緒にして日本から奪い取り、シナ人や朝鮮人に被害者面をさせて、日本の富を賠償という形で吸い上げることを正当化することができない。

このパンフレットはアメリカ人に対する洗脳でもあったと見るべきである。米兵は少数の例外を除いてシナも朝鮮も見ていないし、戦場以外で日本人を見ていないから、日本人がシナ人や朝鮮人を虐待虐殺したといわれれば鵜呑みにするしかない。戦場における勇猛果敢な日本兵のイメージが残虐のイメージと重なるのであろう。マッカーサーは、日本の占領政策を『日本をどうすべきか』の認識に沿って忠実に実行したように見える。しかし、朝鮮戦争で痛い目にあって目が覚め、最後には日本が取った軍事行動はセキュリティ、つまり自衛のためだったと米国議会で証言することになるのである。そのときこそ『日本をどうすべきか』の認識を破壊して一掃するチャンスだったのに、残念なことである。

戦後の成り行きを振り返ると、アメリカはシナ共産党に適当に利用されたに過ぎないことがわかる。ニクソンはシナとの国交を再開すれば、戦後すぐに実現できなかったことを、とうとう実現できると思ったに違いないが、またしてもシナに適当に利用されるだけで終わっている。最近のシナの暴虐と膨張に対してアメリカは飼い犬に手をかまれたぐらいにしか思っていないのかもしれないが、結局はアメリカが『日本をどうすべきか』の歴史認識を改めない限り、シナの増長を止めることはできず、世界の平和も秩序の維持もありえないのだと思う。それは日本がどのように世界の言論をリードするかにかかっている。アメリカがシナの膨張に警戒心を高めている今が第二のチャンスである。

ハル長官は最後通牒となったハル・ノート に対する日本側の最後通牒を読んで「In all my fifty years of public service I have never seen a document that was more crowded with infamous falsehoods and distortions.50年間の公務の中でこんな恥知らずの嘘 と歪曲をこんなにごたごた並べた文書は見たことがない)」と言ったと書いてあるが、『日本をどうすべきか』を読むと同じ言葉を返したくなる。第一、侵略戦争も強欲も人種差別と偏狭な敵愾心も他民族の奴隷化もすべてアメリカを始めとする連合国がやってきたことであり、自分たちが犯してきた罪をそのまま日本に擦り付ける想像力の貧困さには憤りを超えて笑ってしまうが、それは、心理学では投影と呼ばれる自己正当化のメカニズムであり、プロパガンダで頻用されるトリックである。自分の邪悪な衝動を敵に投影して、その邪悪な衝動を敵に対して発動することを正当化する(敵が邪悪だから自分も邪悪な対応をせざるを得なかったという言い訳)、自分たちの悪事を相対化して不問に伏すための常套手段である。日本人はそんなことも見抜けず、はったりをかまされて、腰がくだけたままだ。中には、日本は未来永劫、属国として生きるしかないとあきらめたのか、率先して反日工作に加担し、恥じることがない日本人もかなりいるようだ。

これを書いた のはアメリカ歴史協会であるが、その後継者たちは、今でもここに書かれている歴史認識に従って歴史の教科書を書いている。そして慰安婦の強制連行に関する事実無根の記述を削除するように日本政府が抗議したら、言論と出版の自由の侵害だと騒ぎ立て修正を拒んでいる。彼らが抗議文として発表した Standing with Historians of Japan を読んでも OPEN LETTER IN SUPPORT OF HISTORIANS IN JAPAN を読んでも、彼らが未だに踏襲しているでたらめな歴史認識を使って、戦後日本の言論と出版の自由を完全に否定し、偏向教育を押し付けた Japanese War Guilt Information Program については反省どころか意識さえしていないのがわかる。

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アメリカの歴史家 Michael Schaller が書いた本も面白そうだ。
Altered States: the United States and Japan since the Occupation, (Oxford University Press, 1997).
    市川洋一訳『「日米関係」とは何だったのか――占領期から冷戦終結後まで』(草思社, 2004年)

これは、占領3年目の1947年にアメリカが共産主義の脅威に気が付いてから、占領下の日本(ドイツも)の扱いをどう変えたか、日本はそれをどう利用したかをアメリカの視点から書いたもののようである(サンプルで読めるプロローグと第一章から判断すると)。ebookで40ドルとあるので、どうしようか迷っている。