2015/07/17

大日本帝国が帝国になりそこねた理由:ロジスティクスとシーレーン

NHKスペシャル【ドキュメント太平洋戦争 第1集 大日本帝国のアキレス腱 〜太平洋シーレーン作戦〜】を見た。1992年12月6日に放送されたものだとある。太平洋シーレーン作戦というのは、日本の作戦ではなく、それを封鎖したアメリカの作戦である。日本は制海権も制空権も維持できなかったばかりでなく、それを維持するための作戦らしい作戦も立てていなかったらしい。それに対し、大西洋でドイツの潜水艦(Uボート)に悩まされていたアメリカは、真珠湾攻撃から2年で体制を整え、潜水艦と空母と高性能レーダーで日本の生命線であったシーレーンを封鎖して、日本の統治領域を分断し、海上輸送能力を破壊し尽くして兵糧攻めにしたあげく、徹底した爆撃で日本の都市という都市を破壊したのである。


ドキュメント

経済封鎖に対抗するために自給自足可能な大東亜共栄圏という経済ブロックを構築するのが目的だったはずなのに、肝心要のシーレーンを無防備のまま放置し、それを維持するための戦略を研究していなかったとは、なんという間抜けか。

そして、今チャイナがその同じシーレーンを、南沙諸島と台湾と尖閣諸島の空と海をコントロールすることによって、自在に封鎖できる態勢を着々と進めているにもかかわらず、新聞社の世論調査によると、日本国民の過半数が日本の安全が脅かされていることも集団安全保障の必要性も理解できずにいるらしい。その新聞社自体が、集団安全保障などやったら戦争に巻き込まれて自衛隊員が殺されるなどというピントはずれの屁理屈で反対し、シーレーンの確保など全く眼中にない様子だ(新聞社はチャイナの回し者だと考える以外に説明のしようがない)。

どうやら日本国民は先の戦争の失敗から何も学んでいないようだ。なぜか。一つ思いついたことは、日本には大帝国を運営した経験がないからではないかということだった。大帝国を上手に運営して繁栄させるには、全体を有機的に統合する必要がある。それには、物資や人材を必要なときに必要な場所に移動するロジスティクスが非常に重要である。これはローマ帝国時代から認識されていたことであり、「すべての道はローマに通じる」と言われていたように、ローマ帝国は交通網の整備に力を入れていた。

ところが、日本は行き当たりばったりの現地調達が原則だったようにしか見えない。海上輸送能力を失ったあとは、現地調達しかできなくなったのは理解できるが、それ以前はちゃんとやっていたのか。日本語では補給とか兵站とか後方支援とかいう概念があるが、ロジスティクスが示唆する緻密な計算というニュアンスが感じられない。日経ビジネスの『素人は「戦略」を語り、プロは「兵站」を語る:第2次世界大戦はグローバルロジスティクスの闘いだった』という記事によると、その重要性が全然認識されていなかった。

この点については「アジア太平洋戦争と東南アジア」という講演会の内容をまとめた文書 が参考になる。「この問題を考える際にスタートとなるのが、開戦の三週間前に大本営政府連絡会議で決定された「南方占領地行政実施要領」です。そこで治安の維持、 資源獲得、 現地自活という、 いわゆる軍政三原則を謳った要綱が決定されます。」ということで、明らかに現地調達が原則。グローバルなロジスティクスというようなものは考えられていなかったのである。現地で足りないものはどこから補給するかという計画がないまま、現地の資源を日本の必要のみで「調達」して、現地の住民や捕虜はもとより最後にはシーレーンを封鎖されて海上輸送能力を失い、現地の日本軍でさえ飢え死にする事態になっていった。その辺のことは愛国リベラル史観」さんの次の文章によくまとめられている。

「アジア解放の正義の戦争」をしていたはずの日本軍は、フィリピンで住民の抗日ゲリラに終始悩まされていたし、最初は親日的だったインドネシアやビルマでも、結局は反日闘争が展開されるようになった。そこから見えてきたのは以下の構図だ。

『補給を軽視し“現地調達”を原則とした大本営→食糧を日本軍に奪われ、働き手を基地建設などにかり出される地元民の不満→軍票(日本が作った現地通貨)乱発で超インフレ→約束していたはずの独立もない→これなら欧米の支配の方が良かった→反日運動を憲兵が弾圧→反発を抱いた急進派が抗日武装蜂起→日本軍が反乱指導者を逮捕・処刑→住民の怒りが爆発、全国規模の抗日ゲリラが誕生→ゲリラは一般住民に紛れ込んでいるので疑心暗鬼になった日本軍の一部が住民虐殺→ゲリラと連合軍が連携して日本軍に抵抗』

"GI Roundtable: What Shall Be Done about Japan after Victory?"(米兵円卓会議:勝利の後、日本をどうすべきか日本語訳) という日本占領に向けて米軍を教育するために書かれたパンフレットには、「日本が植民地の統治者として失格者であることは否定できません。日本人は軍服を着て植民地の人々を相手にするとき最悪の悪人になります。朝鮮でも満州でもチャイナの占領地でも、日本人は人々をこき使い恐れられ嫌われています。」と、中国のプロパガンダを鵜呑みにしたことが書かれている

東南アジアについても賠償の義務があるとし、「チャイナ、フィリピン、オランダ 領東インド、ビルマ、およびマラヤでは、何百万人もの一般人が、負傷し、窃盗され、家を追い出され、殺されました。」と、あたかも、日本がすべての地域で 現地人に戦争を仕掛け、虐げ略奪していたかのように書いてある。それは白人やシナ人が植民地統治の中で行ったことであり、その罪を日本になすりつけているに過ぎない。イギリス兵と違って、アメリカ兵が戦ったのは主にフィリピンを始めとする、日本空爆への足場となる島々だ けだったから、ほかの地域で日本軍がひどいことをしたと言われれば、日本人は残忍だと聞かされていたから信じるしかない。しかし、インドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ 会議で明らかになったように、シナ共産党と南北朝鮮以外の国々は、日本のおかげで戦後独立できたと、日本に感謝こそすれ、日本にひどい目に合わされたなどと文句を言っていない。

大陸には大帝国が少なくともギリシャ、ローマ時代にさかのぼって存在したが、島国が帝国になるには海運力が不可欠である。島国のイギリスが7つの海を支配する大帝国になれたのは、航海技術が発達して地球一周が可能になってからである。

それでは、島国日本の場合はどうか。イギリスおよび西ヨーロッパ諸国が7つの海に乗り出し、植民地を使って富を蓄えていた頃、つまり、16世紀後半から20世紀初頭までは、日本では戦国時代から大正時代に相当する。当初、日本では国外に勢力を伸ばす動きとして、イギリスの海賊に匹敵する倭寇がアジア一帯の海岸を荒らしまわっていたことが知られている。東インド会社が設立された17世紀初頭には、豊臣秀吉がシナ大陸の征服を考えていた。これが、記録に残っているものとしては、日本が帝国を夢見た最初ということなるが、本腰を入れて取り組む者がいなかったためか、朝鮮半島まで出かけていってすぐにあきらめた。結局は満州を本拠地とする女真族のヌルハチがシナ大陸を制圧して清王朝を打ち立て、モンゴル、チベット、東トルキスタンを勢力下に入れた大清帝国を作った。一方、日本は方向を180度転換して、鎖国し、外国との行き来を最小限にまで制限して、外の帝国主義や植民地主義の付け入る隙を与えなかった。

しかし、19世紀になって蒸気船が開発され、世界の海が狭くなってきた19世紀の後半、日本は外からの帝国主義や植民地主義の圧力を鎖国によって跳ね返すことができなくなったことを知る。ここでまた180度方向転換して、欧米やチャイナの帝国主義や植民地主義の向こうを張って、富国強兵に邁進する政策に転じ、国防のためとあらば国外に出かけて行って戦争も辞さない普通の近代国家になった。

まず、地理的に近いロシアからの圧力を押し戻すのが急務であった。1894~1895年の日清戦争は朝鮮に足場を築こうとしていたロシアを清が容認していたいたために、清から朝鮮を取り上げるために行われた戦争である。このとき日本は清から台湾と遼東半島も取り上げている。このとき日本が帝国主義的拡張を意識していたかどうかははっきりしない。結局、下関条約に基づき日本に割譲された遼東半島は、ロシア、ドイツ、フランスによる三国干渉によって清に返還させられ、その後ロシアは遼東半島と満州に勢力を伸ばしたので、ロシアの南下を阻止するという目的は中途半端で終わってしまった。

1904年の日露戦争は三国干渉によって南下に成功したロシアを押し戻すための戦争だった。日本は大英帝国とアメリカの協力を得て、日露戦争でロシアを押し戻すことに成功し、さらには樺太の南半分と満州鉄道の利権を手に入れることとなった。それが帝国への足場を築いたといえるかもしれない。第一次世界大戦では戦勝国になったため、ドイツの支配下にあった南洋諸島の統治を委任され、一気に統治領域が広がって、帝国の体裁が整った。このとき日本はまだ統治下にあった外地から資源を調達する必要に迫られていなかったから、現地の住民の福祉に配慮する余裕があった。

第一次世界大戦後は、戦争で疲弊したヨーロッパ諸国に比べて無傷だった日本からヨーロッパ復興のための物資が大量に輸出され、日本の台頭は、軍事的にも経済的にも誰の目にも明らかだったに違いない。さらに唯一の有色人種の国として列強の仲間入りした日本は、第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において人種差別の撤廃を提案した。これは黒人差別を温存し、中国人や日本人の移民を黄禍と呼んでいた白人の日本人に対する警戒心を一層高め、特にアメリカの神経を逆撫でした。時は大正デモクラシーの真っ只中、1919年のことだった。

このとき日本は一歩下がって、世界の情勢と日本の立ち位置を詳細に分析するべきだったように見えるが、復興特需景気に浮かれていただけだったのか。その景気も長くは続かず、1923年には関東大震災に見舞われ、景気が停滞する中、1917年のロシア革命に触発されて共産主義や社会主義も広まり出した。1927年には金融危機に見舞われて多くの銀行が倒産し、1928年には第一回の普通選挙による衆議院議員の選挙が行われたが、政党政治もヨチヨチ歩きで頼りにならない中、翌年の1929年にはアメリカで大恐慌が勃発し、その影響が世界中に波及すると、各国が経済ブロックを作ってブロック内の保護貿易で不況からの脱却を図った。

ブロック内(統治領域内)で自給自足できる体制になかった日本は、満州を保護国としてブロック内に取り込むことで景気を回復していったが、それを危険視した欧米とチャイナは国際連盟を通して日本に圧力を掛けてきただけでなく、米国でもチャイナでも排日反日運動エスカレートしていった。1930年から第二次大戦が始まった1940年までの10年間は、満州事変を皮切りに日本が大陸にのめり込む一方で、日本人に対する乱暴狼藉が頻発し、大陸での日本人や日本軍に対する中国人の馬賊や軍賊さらには国民党と名乗る暴徒や兵隊の攻撃が頻繁になっていった。主なものに、尼港事件(1920)、南京事件(1927)、済南事件(1928)、上海事変(1932、1937)、通州事件(1937)、などがあるが、小規模の暴力沙汰を含めると何百件にも上るという。(ねずさんのひとりごと:済南事件とその遠因通州事件まとめブログなどを参照)

米国では白人以外の移民・帰化を制限する法律が1800年後半か制定されてきたが、日本人移民を完全に禁止する Exclusion act (いわゆる排日移民法)1924年に制定されて、勤勉な日本人に対する警戒心を裏返しにした反日プロパガンダはエスカレートする一方だった。

ウィキペディアの「仏印進駐」によると、1940年6月にフランスがドイツに敗北したのを機会に、日本はフランス領インドシナを経由する援蒋ルートの封鎖に乗り出した。1940年9月23日に北インドシナに進駐し、それと相前後してドイツおよびイタリアと三国同盟を結んでいる。欧米列強は、富の源泉である東南アジアの植民地を日本の自由にされていはたまらないから、状況はエスカレートし、ABCD包囲網でアメリカ、イギリス、チャイナ、オランダは日本に対する経済封鎖を強化し屑鉄や銅など日本への輸出を制限し出した。

日本は経済制裁に対抗して、1941年7月始めに、それらの資源をアクセスしやすい南インドシナに進攻する決断を下し7月末に実行した。それで状況は一挙にエスカレートして、アメリカは日本を兵糧攻めにするために石油禁輸を決定した。石油の全面禁輸が実行されたのは、1941年の8月1日だった。日米間の交渉はいっこうに進まず、追い詰められた日本はこの年の末、12月8日にハワイの真珠湾攻撃を皮切りに次々と東南アジアに侵攻し、資源確保の拠点となる東南アジアから植民地を警護していた欧米の軍隊を駆逐していった。先に引用した「南方占領地行政実施要領」はこのときのために作成されたものであり、帝国運営の経験のなさが露呈しているといえるものだと思う。

1889年に発布された明治憲法は「大日本帝国憲法」と名づけられているから、帝国志向はそのとき既に存在していたことになる。しかし、実際に外交文書で「大日本帝国」という呼称が使用されるようになったのは、第二次世界大戦に向かって世界が激動していた、昭和11年(1935年)からだというから、明治憲法の「大帝国」というのは、憲法作成に当たって手本にしたヨーロッパ諸国に習っただけなのかもしれない。

実は、日本人には大帝国になろうという野心はなかったのではないだろうか。ただただ襲い掛かる脅威に対応するのに忙しく、気が付いてみると、世界の列強を敵に回すという厳しい環境の中で、大東亜共栄圏なる大帝国の運営という未経験の大事業に乗り出してしまっていたのではないかと思う。

今の日本はというと、民間の企業をみれば、世界をまたに掛ける多国籍企業が、かつて果たせなかった大帝国の夢を実現している様に見えるが、政治外交軍事レベルでは「あつものに懲りてなますを吹く」状態から抜け出していないように見える。この落差を放置しておくとどういうことになるのか。民間企業はこの状態をどう見ているのか。民間企業はシーレーンの確保にどのような政治的働きかけをしているのか。

世界中からいわゆる植民地が消えた今、帝国は過去のものになったといえなくもない。かつての帝国が植民地の資源と市場の直接支配で栄えたのに対し、今日の帝国は金融支配、つまり投資からの収益と貸付への利子で栄えているともいわれている。しかし、資源の奪い合いが終わったわけではない。グローバル金融資本の支配下にあると言われているアメリカが中東の石油利権を狙ってイラク戦争を仕掛けたのは2003年のことであり、今も続いているイランに対する制裁はイランが1951年に石油利権を石油メジャーから取り上げ国有化したのがきっかけだった。投資からの収益を保障するには、資源の価格をコントロールする必要がある。

日本の商社等が主要資源に対する利権をどの程度抑えているのかは知らないが、日本は資源外交に神経質にならざるをえない状況におかれているはずである。しかし、それに対する国民の関心が低いのは、やはり大帝国の運営という視点を持ったことがないからなのかもしれない。2011年の東日本大震災の後、そしてタイの洪水の後、自動車業界はサプライチェーンの見直しを余儀なくされた。しかし、その議論は他の重要な資源、特に食料と燃料のサプライチェーンの真剣な見直しには結びつかなかったように見える。東南アジア、豪州、中東、欧州との貿易には中国寄りのシーレーンが重要になる。今でも海賊に悩まされているが、非友好国の軍隊が邪魔をするようになったら始末に終えない。中国はその意思があることを既に十分に言動で示している。

サプライチェーンは、物を物理的に動かせることを前提にしている。それには、シーレーンと海運力の確保が不可欠である。そして、シーレーンの確保には制空権と制海権が不可欠である。そしてそれには、いまのところ、阿部首相のアジアの民主主義セキュリティ・ダイヤモンド構想を頼みにするしかないが、日本では全く話題になっていないと言う。何とも心細い限りである。

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