2016/08/30

原爆とアメリカ人の罪悪感

アメリカ人は原爆を落としたことをどう思っているのかという話になると、日本人が聞かされる話は、アメリカ人は原爆投下を正当化していて、悪かったなどとは微塵も思っていないらいしいということである。

アメリカでも「原爆は日本の降伏を早め、日本本土での決戦を避けることができたから、広島、長崎の犠牲者数をはるかに越えるアメリカ人と日本人の命を救ったのだ。」と言っている識者がドキュメンタリーやニュース番組に出てくるのが標準である。 しかし、ことはそう単純ではない。原爆使用の決定はアメリカ史上最も激しく議論されてきたことだという人もいるくらいだ。 
Alex Wellerstein
原爆のことなら何でも知っている、少なくとも膨大なデータベースを維持しているアレックス・ウェラースタイン(Alex Wellerstein) という科学史家は、今は歴史が忘れられ「一般には、共和党、特に軍関係者は原爆が落とされたことを肯定し、リベラル派は原爆は過ちと戦争犯罪の間に位置すると見ていると思われている。(We assume that Republicans, especially those in the military, are retrospectively pro-bomb, and that liberals see the attacks as something between a mistake and a war crime.) 」と、オバマ大統領の広島訪問にちなんでNew Yorker マガジンに寄稿したブログ、What Presidents Talk About When They Talk About Hiroshima (大統領が広島について話すときに話すこと)に書いている。

原爆を正当化する説明が一般に意識されるようになったのは、1947年2月に、ヘンリー・スティムソン(戦時中の陸軍長官)の名前で The Decision to Use the Atomic Bomb (原子爆弾使用への決断) がHerper's magazine に出版されてからであった(実際には、マンハッタン・プロジェクトの指揮官、レズリー・グローブズが草案を書いた)。

当初、アメリカは科学技術大国なんだ、科学技術の力で勝ったんだ、これで怖いもの無しだと得意になって浮かれていた。軍部は放射能汚染を心配する科学者の警告もなんのその、原爆の実験にまい進していた。特に海軍は原爆に対する艦隊の耐性をテストすることに熱心だった。1946 年の7月には、海軍艦隊(捨てるつもりの軍艦約100隻)を太平洋のビキニ環礁(マーシャル諸島)に集めて、原爆に対する艦隊の有効性を試す実験を報道陣などを招いて公開で行った。長崎に落としたのとほぼ同じ規模のプルトニウム爆弾を 3 発用意していたが、2 発目で怖くなって 3 発目はやらなかった(PBSのThe Bombを参照)。

スティムソン/グローブズが広島と長崎での原爆投下を正当化する文書を一般向けに書く必要があると考えた直接の原因は、New Yorker マガジンに広島一周年記念として広島特集が組まれ、John Hersey のHiroshima によって6人の被爆者の体験が詳しく報告され、それが大ヒットしてアメリカ人に強い罪悪感を抱かせてしまったからだった。スティムソンは、原爆は日本がポツダム宣言をすぐに受諾していれば落とさなくて済んだ、責任ある地位にある軍の指導者としてあれ以外の選択はなかったと言うが、その決断に対する異議は、原爆使用決定の過程でマンハッタン・プロジェクトの内部から、戦後には軍の内部からも出ていた。

科学者たちの反対

秘密兵器の原爆を実戦で使用することに反対できたのは、当然、内部の人間、特にその威力を理論的に把握できた科学者たちである。そしてその中心となったのは、レオ・ジラードというハンガリー生まれのユダヤ系物理学者だった。ジラードは原爆の開発をアメリカに頼むほかにナチス・ドイツの原爆開発に対抗する方法はないと考えて、アインシュタインを説得し、フランクリン・ルーズベルト大統領に原爆開発を進言してもらった張本人である。実際にはドイツではロケット開発は進んでいたが原爆開発は進んでいなかった。そのことは、1944年の後半には知られていた。

ジラードは、1945年3月に、Atomic Bombs and Postwar Position of the United States In the World (原子爆弾と米国の戦後世界における立ち位置)というメモランダムを書いて日本に落とすことには賛成できないという意見をルーズベルト大統領に提出する用意をしていた。5月28日には後に国務長官になったバーンズにそれを見せている。論点は、小規模とはいえ今の時点で日本に原爆を落として、それまでの武器よりはるかに強力な武器が製造可能であることを世界に知らしめれば、ロシアが核開発に乗り出して核武装競争が起きるのは必然であり、核開発を制御・禁止する国際組織を確立する前にそういうことになるのはアメリカにとって好ましくないというものだった。

ジラードは戦後、新聞記者のインタビューに答えて、アメリカが焼夷弾を使用したと知ったときから、アメリカも所詮は目的のためには手段を選ばない国でしかないとわかったと、アメリカの原爆開発に協力したことを後悔していたことを示すコメントを残している。ナチスに代わって、いまやアメリカが人道を無視した悪の帝国になった。それに自分が協力してしまったという思いである。ちなみに、ジラードは戦後、物理学から手を引いて、生物学に転向している。

タイムラインを見ると、大統領就任間もないトルーマンは、4月下旬に、原爆が4ヵ月後(7月末ごろ)に完成する予定だとの報告を受けた。マンハッタン・プロジェクトの主力チームがいたロスアラモスでは、ドイツ降伏3日後の5月11日には、Target Committee で日本の5つの都市(京都、広島、小倉、新潟、長崎)を原爆のターゲットに選び、その理由を説明している。6月1日にはInterim Committee と呼ばれた8人(スティムソン陸軍長官を含む)が、オッペンハイマーを始めとする科学者からの報告に基づき原爆を日本に落とすことを決定。ジラードのいたシカゴ大学のチームは、6月11日にFranck Report という正式なレポートを出して原爆の使用に反対。6月16日には原爆使用に反対する意見を受けて、 オッペンハイマーを含む科学者パネルが ...emphasize the opportunity of saving American lives by immediate military use (直ちに軍事利用することによってアメリカ人の命を救う機会があることを強調する) we can propose no technical demonstration likely to bring an end to the war; we see no acceptable alternative to direct military use.(戦争を終わらせることができるような技術的デモンストレーションができるとは考えられない。直接の軍事利用に代わる適切な用途は考えられない。)という意見を出している。7月2日には、降伏か国の破壊かを日本に迫る最後通牒(ポツダム宣言)の原案が書かれた。ジラードのいたシカゴ大学のチームが出したFranck Report では、無人島などで公開のデモをやった上で日本に落としてもいいか議論するのも一案だが、そういう兵器の存在を世界に宣伝するのは時期尚早、警告無しで日本に落としたら世界の信用を失い、戦後の国際的な核兵器の制限・禁止のリーダーシップも取れなくなると訴えた。

ジラードは後に、この意見に賛同する科学者の署名を集めて大統領宛に嘆願書を出した。ウラニウム製造の拠点だったテネシー州オークリッジでもシカゴチームに賛成する科学者が多かった。このレポートは極秘文書扱いにされた上に検閲の手が加えられていて、復元するのも大変だったようだ。特に倫理的な考察の段落で 「We fear its early unannounced use might cause other nations to regard us as a nascent Germany.”(それを早急に予告無しに使用したら諸外国は我々のことを新生ドイツと見なすのではないかと恐れる。)」という文が真っ黒に塗りつぶされていてた。つまり、原爆を日本に落としたら、アメリカはナチスと同じになると警告したこのレポートをマンハッタン・プロジェクトの上層部は危険視したのである。

爆弾の材料となるウラニウム235の生成に時間が掛かり、爆弾一個分ができるのは7月末ごろという予定だったから、実験する余裕もないまま広島に落とされた。つまり、広島が最初の実験だった。プルトニウムの方は原子炉で作るのでもう少し効率よく生成できたが、それでも、7月16日の実験のあと、8月までに用意できるのは1個だけだった。デモより日米戦争の終結が先だ。デモなどやってる暇はないという議論のようにも見える(あるいは、日本はソ連に仲介を頼んで降伏条件を模索しているから降伏する前に落とせ、だったという見方もある)。ちなみに、7月30日には10日に1個のペースでプルトニウム爆弾を製造できることがわかっていた。

戦後、ジラードは自分が戦犯として裁かれたらどうなるかを考察した短いストーリーを書いている。原爆使用に反対する意見書を大統領と国務長官に提出したというのがジラードの弁明であるが、それは結局大統領には届かなかったし、国務長官へのメモランダムは証拠を確認できなかったから、十分努力したとはいえないということで有罪になるというストーリーである。大統領への意見書はマンハッタン・プロジェクトを指揮していたレズリー・グローブズによって握りつぶされていた。しかも、提出の日付はプルトニウム爆弾の実験が成功した翌日だったが、タイミングが悪く、トルーマン大統領は既にポツダム会談のためにアメリカを離れていた。原爆使用の命令は、ポツダム宣言の前日に出たが、トルーマンがポツダムにいる間にグローブズによって用意され、ポツダム宣言の 1 週間後に使用開始することになっていた。ちなみに、レズリー・グローブズという男は、マンハッタン・プロジェクトを引き受ける前は、西海岸の日系アメリカ人を強制収容するための収容所の建設を指揮していた。

トルーマン大統領は、原爆使用の命令が出た7月25日の日記に、一般市民への原爆投下を避け、軍事基地に落とすようにと指示したと記入している。しかし、実際の原爆使用命令にはそのような制限について何も書かれていない。グローブズが用意したその原爆使用命令には、天候が許せば8月3日以降(ポツダム宣言から1週間後)に、広島、小倉、新潟、長崎のいずれかに落せと書いてあるだけ。トルーマン大統領はそれが都市ではなく軍事基地のリストだと勘違いした、または勘違いさせられた可能性がある。トルーマン大統領は原爆投下後にラジオで流した声明で広島のことを軍事基地と呼んでいる。スティムソンは広島には陸軍の重要な施設が、長崎には海軍の重要な施設があったと言って標的の選択を正当化している(スティムソンは京都をリストから削除させた)。また、この原爆使用命令には、後続の原爆投下も爆弾が出来次第行うと書いてあった。

3発目は長崎からほぼ1週間後、8月17日には落とせる(8月中は、10日に1個製造できる)というメモが7月30日付けで書かれていた。しかし、トルーマン大統領は、8月10日に原爆使用命令を取り消した。その日の閣僚会議での話をHenry Wallace 商務長官が日記に書き残している。「Truman said he had given orders to stop atomic bombing. He said the thought of wiping out another 100,000 people was too horrible. He didn’t like the idea of killing, as he said, “all those kids.” (トルーマンは原爆の使用を止めるように命令したと言った。この上また10万人消し去るというのは考えるだけでも恐ろしすぎる。「あの連中を皆」殺すというアイデアは好きではないと話した。)」
8月10日といえば、日本が降伏条件における天皇制の扱いを中立国を介して確認するための通信を行った日であり、アメリカはそれを傍受していた。しかし、トルーマン大統領が原爆中止命令を出すにあたり、それを聞いていた/考慮したという話はないようだ。

スティムソンの説明によると原爆は日本がポツダム宣言をすぐに受諾していれば落とさなくて済んだということになっているが、それにも疑問がもたれている。ポツダム宣言の元になった7月2日付けのメモランダムでは、天皇制の維持を保証すれば降伏する可能性が高いと書かれていたにも関わらず、ポツダム宣言では天皇について言及しなかったとスティムソンは書いている。しかし、その理由については説明がない。原爆を落とすことができるようになるまでの時間稼ぎに、日本が受け入れられない形でポツダム宣言を出したのではないかという疑念が当然浮かんでくる。Alex Wellerstein の調べによると、チャーチルとスティムソンは天皇制の維持を保証するよう主張したが、トルーマン大統領とバーンズ国務長官はそれを蹴った。真珠湾の報復を誓い、反日プロパガンダでさんざん「ヒロヒト」を悪者呼ばわりしておいて、天皇の責任を問わないというのでは余りにも手ぬるいと見られることを恐れたためといわれている。ウィキペディアによると、1945年6月のギャラップ調査では、33%が昭和天皇の処刑を求め、17%が裁判を、11%が生涯における拘禁、9%が国外追放するべきであると回答するなど、天皇に対するアメリカ世論は極めて厳しかった。トルーマン大統領はポツダム宣言の受け入れを「無条件降伏」と呼び続けた。

ポツダム宣言には、日本の政治形態は日本国民が決めると書いてあったから、天皇制は日本国民が決めることだと読めたはずであるが、アメリカは天皇制の維持について確認を求めてきた日本政府に対して、天皇の権威を占領軍の最高司令官=マッカーサーの権威の下に置くという間接的な答えを日本に送ったとスティムソンは書いている。

沖縄戦終結の直後、6月25日に出版された米兵を占領に向けて教育するためのパンフレット、"GI Roundtable: What Shall Be Done about Japan after Victory?"(米兵円卓会議:勝利の後、日本をどうすべきか)には、天皇は占領下での日本の統治に役立つという考えがあったことが書かれている。マッカーサーも天皇がいなければ占領下の日本の統治はもっと困難だったろうという意味のことを書いている。

原爆のターゲットが議論されたことが正式に記録されたのは、1943年5月の軍上層部の会議だった。 そこでは、日本の軍艦が結集しているトラック島の港がいいという話しになっていたが、実際に原爆が使えるようになったときには、トラック島は軍事基地として無力化していた。ターゲットが正式に議論され、日本の5つの都市が選択されたのは、ドイツ降伏3日後のTarget Committee においてであった。
当然、原爆をドイツに落とすことも検討されたのかという疑問が沸いてくるが、これについても Alex Wellerstein が調べている。1943年8月の時点では、ドイツに先に原爆を落とされる可能性があることがルーズベルト大統領に報告されているが、1944年の後半にはドイツが原爆を持つ可能性は極めて低いと認識されていた。マンハッタン・プロジェクトを指揮していたレズリー・グローブズは晩年、当時を回想して、1944年の12月末に、ドイツに原爆投下することは可能かというルーズベルト大統領の質問に対して、さまざまの理由でそれは困難であると説明したと述べている。その理由の一つは、ヨーロッパ戦線にはB-29を投入していなかったので、原爆の大きさと重さから、ドイツに落とすことは物理的、戦術的に困難だったこと。もう一つの理由は、B-29が撃ち落とされる可能性、原爆が不発に終わる可能性、その結果、技術が盗まれる可能性は日本に対してはあまり考えなかったがドイツに対しては考慮されたことが述べられている。

アイゼンハワーも戦後に原爆に反対したことを表明した一人だった。1948 年に出た Crusade in Europe というメモワールによると、アイゼンハワーはスティムソンに原爆の使用に反対する意見を次のように述べたということになっている。

「この新兵器が説明されている通りの恐ろしい破壊力を持っているものなら、アメリカがそのようなものを率先して戦争に導入するのを見たくない。そのようなものをいかなる敵に対しても使用する必要がなければいいがという気持ちを表明した。(I expressed the hope that we would never have to use such a thing against any enemy because I disliked seeing the United States take the lead in introducing into war something as horrible and destructive as this new weapon was described to be.)」
アイゼンハワーとスティムソンの間でこのような会話が実際にあったかどうかについては疑問がもたれているが、1948年の時点で、倫理的な理由で原爆の使用に批判的だったことを表明したことは否定できない。 Alex Wellerstein の説明によると、当時のアメリカ軍の上層部には批判的な意見を表明していた人が何人もいる。たとえば、1946年のThe U.S. Strategic Bombing Survey (米国戦略爆撃調査)では「日本は原爆を落とされなくても、ソ連が参戦しなくても、本土侵攻の計画がなくても降伏していただろう。(Japan would have surrendered even if the atomic bombs had not been dropped, even if Russia had not entered the war, and even if no invasion had been planned or contemplated.)」という結論が出ていた。 アメリカ軍の統合参謀本部議長だった William Leahy 提督はメモワールの中で原爆の使用を「野蛮(barbarous)」と呼び、暗黒時代やジンギスカンの戦いと大差ない、キリスト教に反する、原爆は爆弾ではない、毒ガスと同等に扱われるべきだ、など非常に強い言葉で原爆の使用を非難した。軍事的には、「日本との戦いで実質的な助けにはならなかった。(no material assistance in our war against Japan,)」日本は「既に敗北し、降伏するところまで来ていた(already defeated and ready to surrender)」のだからと書いている。

ところが、今日ではそのような見解を政治家が表明することは考えられなくなっていると Alex Wellerstein は指摘する。あの原爆投下を批判するようなことを言えば歴史修正主義者のレッテルを貼られるのだという。このような傾向が定着したのは1995年、原爆を投下した飛行機、エノラ・ゲイをスミソニアン博物館に展示することに決めたとき起きた争い、関連文書の展示をめぐる争いの結果だという。原爆使用の正当性に疑問を挟むような資料、アイゼンハワー大統領の反原爆コメントの表示を退役軍人グループが大反対して展示から取り除かせたのだった。

一般のアメリカ人にとって、原爆は恐怖の対象であると同時に罪悪感の元でもある。1949年にソ連が原爆開発に成功したと知ったとき、アメリカ人はあの広島・長崎で起きたことが自分たちにも起きるかもしれないと考え、震え上がったのである。そのようなアメリカ人の気持ちを静めるために、1950年代から1960年代の始めにかけて原爆避難訓練が盛んに行われた。キューバ危機はそれが一挙に現実味を帯びて迫ってきた事件であったが、避難訓練や防空壕の有効性については懐疑的な雰囲気が広がっていた。さらに強力な水素爆弾ができ、原爆の保有数が千単位になり、ベトナム戦争が本格化したころには、原爆避難訓練も防空壕の建設も下火になってしまった。

子供のときに学校で避難訓練が頻繁に行われた世代のアメリカ人は、原爆に対する恐怖心を長い間、引きずってきた。そして、それは広島・長崎に対する罪悪感とセットになっているのである。だから、アメリカ人の中には、広島出身とか被爆者の遺族だとかという人に会うと、どぎまぎしてしまうという人も少なくないのである。しかし、そういう人でも、罪悪感を素直に認めない場合が多い。悪いと思えば思うほど、むきになって正当化しようとするのは、人間の心理として理解できるが、彼らは特にその傾向が強いのではないかと思われる。

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