2016/10/27

フーバー大統領の Freedom Betrayed (裏切られた自由)を読んで

この本(アメリカを戦争に引き込んだフランクリン・ルーズベルト大統領を糾弾したフーバー大統領の回顧録)が日本で話題になっているようだ。日本語の翻訳本がいつ出るかは未定だという話だが、この本を紹介する本が既に出ている。

この本はフーバー大統領が亡くなる1年前の1963年には、いくつかのファクト・チェックを除いて出版できる状態になっていた。しかし、出版されたのは半世紀後の2011年になってからだった。実は、フーバー大統領は日米戦争の火蓋が切られた真珠湾攻撃の日、1941年12月8日(アメリカでは7日)にこの本を書き始めている。しかも、亡くなる直前まで、何度も何度も書き直している。

フーバー大統領は日米開戦までは、あらゆる機会に、1940年の大統領予備選に出馬したときにも、アメリカはヨーロッパの戦争(ナチスドイツの戦争)に手を出すべきではないと主張し、ルーズベルトが大統領選挙のときに公約したモンロー主義/不参戦を守らせようと努力していた。その努力が無駄だったことを知った日米開戦のその日に、フーバー大統領はルーズベルト大統領の裏切りを糾弾する本を書くことを決断し、日米戦争に至るまでの経緯がわかるすべての記録や記憶を保存するように元国務省の副長官だった友人に頼んだのである。

1000ページ近いこの本の後ろには、初期に書かれた文が収録されていて、主要な論点が手短にまとめられている。しかし、フーバー大統領が「大著」と呼んだこの回顧録はただの回顧録ではない。フーバー大統領は秘書やリサーチ・アシスタントを何人も雇って、入手可能なあらゆる資料から、ルーズベルト政権内部の人間やイギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリンらの言動を調べ上げ、彼らの言葉を引用することによって、歴史の真実を浮かび上がらせるという、きわめて客観的、学術的なアプローチでこの本を書く努力を惜しまなかった(関連資料はフーバー・インスティチューションに保管されている)。フーバー大統領はルーズベルト政権の「失政」を明らかにすることの重要さにそれだけ強い信念と情熱を持っていたということだ。しかし、フーバー大統領の死後にこの本の出版権を託された息子たちは、歴史修正主義と呼ばれるであろうこの本を出版しなかった。中で批判されている人々が生きている間は出版がはばかられたということもあったようだ。その辺のいきさつは、編集者としてこの本をまとめ、出版した George H. Nash が長い前書きで詳しく説明している。

とりあえず、日本に関連した章を読んでみた。日米開戦前夜のルーズベルト政権の動向を読むと、11月25日にチャイナから、日本と外交交渉で決着をつけようとするなんてもってのほかという苦情があったのに対して、アメリカは、アメリカ側の被害が大きくならない方法で日本に最初に手を出させるにはどうするかが問題だとか、日本が絶対に受け入れないことが確かな条件を解答したから心配するなといったことをチャイナに教えていたことがわかる。チャイナ/共産党がアメリカにもイギリスにも、日本を武力で潰してくれなければ、米英の扱いを考えなおすというような圧力をかけていたということも、はっきりわかる。つまり、日米戦争はチャイナ/共産党が米英を手なずけて仕掛けたという結論になる。英国のチャーチルにせっつかれて、英国を支援するために日本を使って裏口からヨーロッパ戦線に参戦したようにも見えるが、1941年の6月にドイツ軍はソ連に攻め込んでいたので、つまり、在米資産凍結令が出て、石油の対日全面禁輸が決定され、日本に対する経済封鎖が最終段階に入ったころには、イギリスに対するドイツの脅威は山場を過ぎていたのだ。だから、フーバー大統領はその時点でソ連に協力を要請し、ソ連を支援してドイツを潰せば、共産主義の勝利を保証する事になると警告したのだ。ドイツとソ連を戦わせて、2つの全体主義国家を同時に弱体化させてから、対処するのが効果的だというのがフーバー大統領の主張だった。

ちなみに、フーバー大統領がルーズベルト大統領のことを「madman」(狂人)と呼んだのは、1946年に東京でダグラス・マッカーサーに会ったときだった。マッカーサーはそれだけでなく、経済封鎖が挑発であったという見方にも共感を示したと書かれている。


1 件のコメント:

Etsuko Ueda さんのコメント...

この本の翻訳、「裏切られた自由」(渡辺 惣樹 訳、2017/7/13)がようやく出版された。

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