2017/07/30

国破れて、女たちの出番

国が破れたら、生き残った男たちは奴隷化され、女たちは侵略者に犯され、奴隷化されて、好むと好まざるとに関わらず侵略者の子供を生まされるというのが古来からの習わしだったらしい。大東亜戦争で日本が英米の率いる連合国に負けたときも、女たちは強姦を恐れ、沖縄では米兵の侵攻を目前にして、樺太ではソ連軍の侵攻を目前にして自決した女たちさえいた。このような女性の運命は下々の一般の女性に限られたことではない。国の中枢で、妃や姫などとよばれるような地位にある女性の運命も似たようなものである。戦国時代の武将たちは妻や子供たちを人質に差し出したり、娘を政略結婚に差し出したりした。負け戦が確実になったとき、夫と一緒に自決した者もいた。ヒットラーは敗戦が確実になった時、夫人のエヴァ・ブラウンと共に自決した。

このように書くと、女たちは自分を守るすべを持たない弱者であり、運命に弄ばれる犠牲者でしかないように聞こえる。たしかに昨日まで敵だった男たちに強姦されたり性奴隷のように扱われ、望まない子供を生まされたりした女性たちの運命は、戦って殺されたり、捕われて拷問されたり、過酷な労働を強要されたりした兵士同様に悲惨というほかないが、国が破れて侵略者と向き合わなければならなくなった女性たちの中には、別の覚悟、今度は女の出番だという覚悟を決めた人もいたのではないだろうか。籠絡とか、ハニートラップとか、懐柔とか。

なぜこんな話を取り上げるのかと言えば、敗戦後の占領下の日本について色々読んでいて、米軍の高級将校たちの「お相手をした」上流社会の女性たちがいたという話に出くわしたからである。しかもそれは、「意図的」に行われたらしいのである。

一番有名なのは鳥尾子爵夫人、鶴代であろう。この人の場合は自分で本を書いているから、単なる噂ではなかった。キサラギジュンの「GHQの女」を抜粋引用させてもらうと、
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□鳥尾夫人
下條鶴代は女子学習院初等科に入学した。鳥尾光敬(みつのり)と結婚して子爵夫人となった。一九三三年九月四日生まれの息子、敬孝(のりたか)を女子学習院幼稚園、学習院初等科、小金井ご学問所へ通わせている。敬孝は皇太子の継の宮(今上天皇)と同級のご学友となった。。。

戦争が終結すると今まで不倶戴天の敵だった米軍高級幹部を接待するのが政府の主な仕事となった。ある日、オニガワラのような顔のナラハシ・ワタル内閣書記官長(のちの官房長官、在職一九四六年一月一三日~一九四六年五月二二日)が総理官邸でパーティが開かれた。官邸には大きな食堂やシャンデリアがあり,五人の陸軍の将校と四、五人の海軍将校を呼んで接待したのだ。GHQ民政部のケーディス大佐やラウレル中佐、ハッシィー中佐などが集まった。オニガワラが眼をつけた鳥尾鶴代子爵夫人や、鍋島しげ子(鍋島子爵夫人)、太田芳子夫人(元横浜正金銀行ニューヨーク支店長の妻)らが官邸に呼ばれた。その後数日して新橋第一ホテルでお返しのデイナーダンス会が開かれ、鳥尾夫人はケーディスと結ばれた。幣原内閣はその後も三人を呼んで大磯滄浪閣 (一時、西武プリンスホテル別館)などでバーべキュ―・パーティをしている。
。。。
オニガワラことナラハシ・ワタルは幣原内閣の下、憲法調査会(松本蒸治国務相・委員長)とGHQの間を駆けずりまわっていた。政府原案は毎日にスクープされ、マッカーサーの逆鱗に触れ、マッカーサー原案が準備されようとしていたさなかである。
宴会の設定は急務であり、御婦人方の調達も急務だった。総理府官邸のパーティのホストナラハシ夫人や松本国務相、白州次郎外相秘書官、福島真太郎首相秘書官、元神奈川県知事夫人、元東京帝大教授荒木光太郎、光子夫妻、そのほかの実業家や華族の令嬢や夫人たち、国家総動員体制だったのだ。。。

。。。日本の憲法が変わる。
―その出発点は四五年一〇月四日、マッカーサーが東久邇内閣の副首相格の近衛文麿元首相に憲法改正を即し、翌日には内閣総辞職され、かわって組閣した幣原内閣の松本蒸治国務相が憲法問題調査委員会が編成した草案を「明治憲法と変わるところがない」と拒否し、自前の草案を作ろうとフィリピンからホイットニーを呼び寄せたところから始まる。四五年末にはホイットニーが東京に来てGS局長に納まる。ホイットニーはケーディスを巧みに活用して「国体変革ー象徴天皇」、「戦争放棄」、「人権尊重―主権在民、基本的人権、婦人参政権」を憲法に表現する草案作りを急いだ。ケーディスたちは四六年二月二日からたった一〇日間でマッカーサー草案を完成させた。二月一二日がデッドラインだった。その日はマッカーサーが指定した。マッカーサーは例の通り、「リンカーンの誕生日までにあげろ」だった(増田三四八p)。
ワシントンで開かれているFECをはじめ、アメリカ、ソ連、オーストラリアの世論は「天皇処刑論」だったが、マッカーサーはどこの意見も聞かず、「天皇制存置論」を展開したのだ。
マッカーサーが憲法の制定を急いだのは、一九四五年の一二月にイギリス、ソヴィエト、アメリカの外相会議で極東委員会(FEC)の設置が決まったからだ。十三カ国(米国・英国・中国・ソ連・フランス・インド・オランダ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・フィリピン、一九四九年一一月からビルマ・パキスタンが加わる)の代表から構成されるこの委員会が、一九四六年二月二六日以降、活動を開始した後は、憲法改正に対するGHQの権限が制限されることになっていたので憲法制定を急いだ。つまり、同じ戦勝国だけれど共産主義圏のソビエトが口を出してくる前に自分の手で憲法を作り上げてしまおうということだった。
ホイットニーは元帥の意図を忠実に推進した。ホイットニーの部下、ケーディスにはこの方針に従って草案を作らねばならない。天皇を政治には参加させないが、国民統合の象徴として位置付ける。「イギリス王朝と市民との関係」のような立場が最終目標である。

『鳥尾夫人は言った。「私は素直に天皇制はそのまま残したいと思う。ただし今までのように神の如き特別扱いは絶対にしないこと、英国のキングやクイーンのように、もっとっもっと一般市民ともおだやかに接し、生活なども或る程度同じにして理解し合えるようにし、天皇は絶対的で、それを誰かが利用したら大変なことになるような存在ではなく、人間天皇の御一家で残したい」
この時期、もし天皇が戦犯に成ったり、天皇制がなくなったりしたら、われわれ国民はよりどころを失い、本当の敗戦国になってしまうような気がしたのだ。あるいは私の育った環境がそういわせたのかもしれない。このような会話があって、なお、二、三日たった或る日、私達は午後の一刻(ひととき)を世田谷の庭で、子供達と共に過ごしていたが、ケーディスは、「会議があるから帰る。今日が最後の会議で今は或る国の代表が、すごく天皇制維持に反対している。それに同調するものも出てくるかもしれない。もう一度聞くが、ツーチャンは天皇制維持に賛成なんだね、残したいのだね」と優しい顔をしてたずねた。私は思わず「お願い」と手を合わせていた。夜遅く電話が来た。
「がんばったよ。お休み」
私は眼頭が熱くなった。』
―この記述は『私の足音が聞こえる マダム鳥尾の回想』(鳥尾多江・文藝春秋・一九八五年七月二〇日)から抜粋。
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引用が長くなってしまったが、憲法改正の駆け引きを背景としたこの話が本当なら、鳥尾子爵夫人は引き受けた任務をよく遂行したということになる。 マダム鳥尾は男女の機微というか、男についてよく心得ていた人らしく、『おとこの味』という題の本も出した。優れた観察力の持ち主だったらしい。上流社会の女性にはそういう才能も必要だったのかと少し考えてしまったが、よく考えてみれば、そういう世界では、おもてなしや説得、感化などで人を動かすことが仕事だから対人関係の才覚がものを言うということなのであろう。外国人が相手の場合は、外国での生活体験や外国語を操る能力も不可欠だが、その条件を満たすことができたのは当時は上流社会の女性以外にいなかった。どこまで本当かわからないが、接待にかり出されたご婦人方にはその道のプロがいろいろ伝授したという話もどこかで読んだ。

もう一人の大物は荒木光子だ。この人の場合は、マッカーサーの下で諜報部長を務めたチャールズ・ウィロビーの愛人だったとCIAの記録に残っていたが、真相はわからない。この人にまつわるミステリーは、松本清張の好奇心をくすぐるに十分だったらしい。川村淳一氏のブログ「『秘録・日本国防軍クーデター計画』(阿羅健一著)の紹介(全2回/第1回)」によると、
「松本清張は、服部卓四郎と辻正信との交友関係、国防軍創設を唱えた服部とそれに反対した吉田茂との関係及びGHQ参謀第2部長・ウイロビー少将と強い繋がりがあった荒木光子を書こうとしたが、執筆を決めた十日後の平成4年4月13日に脳溢血で倒れ、8月に亡くなった。」
詳しくは、日本軍を復活させようとしたウィロビー諜報部長で触れたが、要約すると、荒木光子は三菱財閥の大番頭、三菱本社理事の荘清次郎の娘であり、兄の荘清彦はのちの三菱商事社長。1921年に結婚した夫の荒木光太郎は経済学者で兄の学友だった。荒木は、1923〜1926年に欧米に留学し、独・ 英・米・仏に滞在、光子も同行した。1938 年には日独交換教授として渡独しベルリン日本研究所代表を務め、翌年帰国 する。光子は社交界で活躍し、戦中はドイツ大使館でのパーティーにもよく顔を出していた。戦後、荒木光太郎は公職追放で東大(在職1919〜1945)を追われ、ウィロビーの戦史編纂プロジェクトに日本側の戦史の編集長として雇われた。ウィロビーの率いる占領軍の情報部(G2)は日本郵船ビル(三菱系列)を接収して使用していたが、光子はそこにオフィスを持ち、専用のジープも提供されていた。戦史編纂の仕事では光子も夫とともにコーディネーターとして活躍したらしいことは、荒木光太郎に関する複数の文書に記載されている。

反共諜報活動もウィロビーが諜報部長を勤めたGHQの重要な任務の一つだったが、その関係でも、荒木夫妻が協力したらしい。川村淳一氏のブログ「『秘録・日本国防軍クーデター計画』(阿羅健一著)の紹介(全2回/第1回)」によると、

「ウイロビー少将は荒木夫妻に日本共産党の調査を依頼し、荒木夫妻は服部に相談して、橋本正勝と水町勝城が直接任務に当たった。当時、ソ連から引き揚げてきた将兵は舞鶴で「スターリン万歳」をしてそのまま代々木の日本共産党に行って入党手続きをしていた。荒木光子はウイロビー少将の期待を一身に受けて活動した。」
同姓同名の別人かも知れないが、荒木光子らしき人の写真はインテリアコーディネータの村上英子さんのページにあった。下の写真の女性が働いていたパシフィックハウスというインテリア設計事務所に村上英子さんが入社したのが1956年だというから、この写真は1956年以降に撮られたものであろう。ウィロビーは1951年4月に日本を去ったマッカーサーの後を追うように日本を去り、夫の荒木光太郎は1951 年 9 月 29 日に肝臓病で死去。1952年4月にはGHQに接収されていた建物が返還され、4月28日に日本は主権を回復した。服部卓四郎(元参謀本部作戦課長)がウィロビーの下で日本側の戦史の編纂をしながら、GHQの目を逃れて別途編纂していた『大東亜戦争全史』は1953年に出版された。だから、1956年には光子はGHQや戦史編纂に関係した仕事から解放されていたはずである。そのころ光子は50代なかば、写真の人の年格好とも矛盾しない。光子は「荒木家に画を学ぶために出入り」していたというからインテリアというのも納得できる。海外生活、マニッシュ、などという記述から考えてほぼ間違いないと思う。


尊敬する人は、インテリアの恩師である荒木光子女子。荒木光子女子
故荒木光子女子。着物姿は珍しかったとのこと。

 私のインテリアの恩師は荒木光子女史です。
 荒木さんはその当時にして、ヨーロッパをはじめとする海外生活が長く、英語、仏語と語学が堪能でした。多くのヨーロッパの文化人と対等に交流し、本物を知っていました。そして、おしゃれで、マニッシュなスーツと帽子がよく似合う素敵な方。私がいちばん尊敬する方です。

荒木家の光子(1904-1986.6.5)の墓には十字架とフランシスカという戒名/クリスチャン名が刻まれているそうだ。

マッカーサーは将校たちの日本女性との関係を憂慮して、高級将校に夫人を呼び寄せることを許可したということだが、民政局次長のケーディス大佐に取っては、時既に遅しであった。マダム鳥尾のことを夫人が知るところとなり、離婚沙汰になってしまった。

一般の将兵に対する「もてなし」ももちろんあった。ウィキペディアの特殊慰安施設協会(RAA)のページによると、
占領軍の性対策については内務省警保局が1945年8月15日の敗戦直後から検討した。
8月17日に成立した東久邇内閣の国務大臣近衛文麿は警視総監坂信弥に「日本の娘を守ってくれ」と請願したため、坂信弥は一般婦女を守るための「防波堤」としての連合軍兵士専用の慰安所の設営を企画した。
8月18日、内務省は同省警保局長橋下政実によって「外国軍駐屯地に於る慰安施設について」(「外国軍駐屯地における慰安施設設置に関する内務省警保局長通牒」)、および「外国駐屯軍慰安設備に関する整備要項」を各県に行政通達し、警視庁は花柳界の団体と打ち合わせを行った。 
連合国軍対策の一環として同月26日に外国軍駐屯地における慰安施設が設立された。戦後の進駐軍の日本占領に当たり、日本の婦女子の操が進駐軍兵士らによって汚される恐れがある。それならば性の防波堤を作って一般婦女子を守りたい、との思惑からである。
すでに占領直後に、連合国軍、特にアメリカ軍がこの種の「サービス」を提供するよう命じたともいわれ、1945年8月22日付で発令された内務省警保局「連合軍進駐経緯ニ関スル件」という文書の最後の項目に「聯合軍進駐ニ伴ヒ宿舎輸送設備(自動車、トラック等)慰安所等斡旋ヲ要求シ居リ」と記されている。
当時、東京都の仕事をしていた磯村栄一氏は、占領軍からの命令でレクリエーション・センターと呼ばれた占領軍のための慰安所を設置したことを、ほぼ半世紀後に告白している。ウィキペディアの特殊慰安施設協会(RAA)によると、
占領軍はRAAだけでは満足できずに、GHQの軍医総監と公衆衛生福祉局長サムス大佐が9月28日に、東京都衛生局防疫課長与謝野光に対して、都内で焼け残った花街5カ所と売春街17カ所に触れながら、占領軍用の女性を世話してくれと要求した。また、与謝野光は将校、白人兵士、黒人兵士用の仕分けの相談も応じた。
GHQは「都知事の責任において進駐軍の兵隊を性病にかからせてはいけない」と性病検診を命令し、与謝野はこれを受けて東京都令第一号と警視庁令第一号で性病予防規則を制定し、週一回の強制検診を実施した。都は、10月22日に「占領軍兵士を相手にする女性の性器の洗浄と定期的な検診の義務付け」を盛り込んだ規則を制定した。これが、戦後都政が発令した第一号の条例である。
売春婦の6割が性病に感染していたというが、占領軍は性病の管理をすべて女性の責任として取り締まった。当時、アメリカ兵はコンドームを支給されていたはずだが、当時のコンドームは分厚かったから、彼らは性病や妊娠の予防よりは快感を重視したということなのだろう。この性病対策は、主権回復後も米軍基地周辺の売春婦に対して継続された。2014年に日本占領を問い直す―ジェンダーと地域からの視点―という博士論文を書いた人がいるが、それによると、
キャンプフジ司令官は、日本の独立後盛んになった基地売春への批判と、米本国からの批判に対して、兵士の性病感染率が上昇するとその機をとらえて売春地区へオフリミッツ策をとった。米兵の立入禁止によって、経済的打撃を受ける地域では、オフリミッツ解除のために、性病検査をより徹底化する。極東軍司令部も、このオフリミッツという経済的脅しをかけては、地元行政と業者によりクリーンな売春を提供させる方法を、「有力な武器になる」とさえ考えていた。独立後も基地周辺では占領的な状況が続いていたのである。

占領軍は、もともと将兵が売春施設へ出入りして、いかがわしい女たちと関わることを禁止する方針でいたから、占領7ヶ月で禁止のお布令が出て、公の施設は閉じた。日本占領を問い直す―ジェンダーと地域からの視点―によると、
1946年1月21日に出された公娼制度廃止指令は、遊郭の女性を縛ってきた前借・年期制度を人身売買として禁止するものであったが、「売春そのもの」は禁じていない。そこを見越して日本側は、「個人の自由意思」による売春稼業の継続を図った。
さらに、「占領初期にルーズだった米兵の買春行為への態度は、GHQのG-1(軍司令部参謀第一部)に陸軍規律維持を重視するスタッフが台頭してきた占領中期の1947年に入ってから変化した。」米軍はこの問題を道徳と規律の問題と捉えて 「性道徳と精神的アプローチによって買春を減じようと」して、「兵士の適度な運動を確保し「個人の尊重」をはかることが性病予防の根本的対策になるという認識を打ち出した。」のだそうである。しかし、それで暇を持て余していた将兵たちの性行動を制御できる訳がないから、公娼施設が民営の売春施設に変わり、パンパンやオンリーと呼ばれた占領軍相手の売春婦が派手な格好で街を闊歩しただけでなく、強姦も増えた。キリスト教的道徳を振りかざして現実の人間に適切に対応しようとしない偽善者が幅を利かせるアメリカの面目躍如である。

それでは、当時の日本社会はどういう反応をしたのか。当時の社会通念では、日本でも欧米社会でも婚外・婚前交渉はタブーだった。しかし、貧困のどん底にあった日本社会は占領軍が女たちを通して落とすお金や食料を必要としていた。日本占領を問い直す―ジェンダーと地域からの視点―によると、
 地元住民のパンパンに対する姿勢は、時代と階層・生業によって異なる。当初、パンパンたちの村への流入を、「村の娘が暴行されないから必要だ」という性意識で受容した村人たちには、パンパンに対して「特殊女性観」はあったものの、差別観や排除の気持ちはなく、むしろ、地域住民とパンパンたちの「共生関係」のようなものも醸成されていた。特に、パンパンを間借りさせた家には女性家主も多く、社会的弱者(「戦争未亡人」とパンパン)が互いに寄り添い、「共生」するという面もあったと想像できる。他方、行政・教育関係者や婦人会・青年団など、パンパンに依存しないですむと考えられる層が1952年7月に「風教衛生対策に関する要望書」としてまとめた意見書では、パンパンを社会風俗上迷惑な存在として、一般住宅と分離した「特殊地区」へ囲い込み、取り締りと性病検診を徹底させるように求めている。婦人会は、パンパンの児童公園への立ち入り禁止、浴場の湯船の分離まで訴えた。他方、米軍に対する要望は1点のみで、買春側への問題視は抜け落ちている。
当時、日本では売春は犯罪ではなかったが、次第にアメリカに迎合した性道徳観が幅を利かすようになり、売春婦は社会風俗上迷惑な存在として、隔離すべき存在として扱われるようになった。ついには、1956年に成立した売春防止法によって売春は犯罪になった。買う方の男たち、米兵は罪に問われない。日本社会が「性の防波堤」を提供した彼女たちに感謝の意を表したりねぎらったりした形跡はないどころか、ウィキペディアの特殊慰安施設協会(RAA)によると、
賀川豊彦は『婦人公論』1947年8月号で「闇の女に堕ちる女性は、多くの欠陥を持っている」とし、パンパンについては「わざと悪に接近」するような悪魔的なところがあり、「一種の変成社会における精神分裂病患者である」と指摘している。
また、
YWCAの植村環は『婦人公論』(1952年5月号)で「アメリカの寛大な統治を悦び、感謝しており」とする一方で慰安婦たち「卑しい業を廃めさせ」るよう要求したり、「パンパン」を「大方は積極的に外人を追いかけて歩き、ダニのように食いついて離れぬ種類の婦人」と述べたり、「あんなに悪性のパンパンに対しては、白人の方だって、あの位の乱暴は働きたくなりますさ」などと語るなど、売春問題を買う男ではなく売る女性の方を問題としていた。
二人ともキリスト教徒であるが、これが当時の良識ある日本人の一般的な感覚だったのかキリスト教徒のみに見られたものだったのかは、当時まだ幼かった筆者にはわからないが、今日の感覚では、醜いのは、このような迎合主義者の方であると思うのは筆者のみであろうか。占領軍に「食いついて」うまくやっているように見えたパンパンたちに対するやっかみもあったに違いない。征服者に取り入ってうまくやることに対する屈折した心理は、属国状態が続く限り消えない、それが売春であれ売国であれ。自分を売るという観点から見れば、売春も迎合も大差ない。「アメリカの囲い者」である現実から逃れることはできないのだ。

占領軍と被占領民の間の性の問題は、売春や強姦だけでは終わらない。妊娠と混血児の問題も深刻だった。当時の社会通念では、日本でも欧米社会でも婚外・婚前交渉はタブーだった。当然、独身女性が子供を生むことも育てることも社会から白い目で見られた。それが強姦の結果なら、なおさら隠蔽して闇から闇に葬られなければならなかった。それが敵兵との混血児となればなおさらのことであっただろうことは容易に想像がつく。人工妊娠中絶、嬰児殺し、捨て子などが横行した。そのような事態に直面したのは日本本土の女性だけではなかった。大陸や半島で捉えられ奴隷にされた人々、命からがら脱出してきた引揚者、さらには沖縄住民の間では多数の女性が強姦され、繰り返し強姦された例も少なくなかったという報告もある(闇に葬られる終戦後の日本女性の悲劇を参照)。日本本土では、嬰児殺しや捨て子は、占領が始まって10ヶ月目(妊娠してから出産するまでの月日)から顕著になった。それを見かねて、捨てられた混血児のための孤児院、エリザベス・サンダース・ホームを作ったのが、三菱財閥の本家、岩崎家の長女、澤田美喜であった。



『GHQと戦った女 沢田美喜』を書いた青木冨貴子氏の話によると、「占領軍は混血児を「米軍の恥」ととらえ、「恥の宣伝」であるホームの設立に強く反対したという。沢田はだから「GHQと戦った女」なのだ。」この本にはそれを美喜の息子がどう見ていたかも書かれている。
「慈悲の心で可哀想な子どもたちを救おうとした」というのが巷の風説である。ところが、美喜の長男である沢田信一はこの説を一蹴。母がホームを開いた理由を問われて、皮肉交じりに著者に答える。
「混血児の存在を明らかにし、財閥解体をして自分たちを窮地に追い込んだGHQに赤恥をかかせてやりたかったのでしょう」(なぜ財閥令嬢は混血孤児を救おうとしたのかより)
美喜が決意したときの状況は、「ある日、満員列車で美喜の目の前に網棚から紙包みが落ちてきた。黒い肌の嬰児の遺体だった。美喜の頭に血がのぼり、心臓が激しく鳴った。イギリスの孤児院ドクター・バーナードス・ホームの記憶が突然よみがえった。美喜は天命を覚えて身震いした。」と「三菱ゆかりの人」に説明されている。当時の進駐軍の態度については青木冨貴子著の『GHQと戦った女 沢田美喜』に次のような記述がある。
「進駐軍に誰ひとり立ち向かえなかったアメリカ一辺倒のあの時代、米兵のおとし子のための施設をつくることはGHQに歯向かうことにほかならなかった」。「子供の母親たちは混血児を生んだという恥を隠すために、父親について何も語らず、子供を殺すか、捨てることになるという。生き残った子供の多くは混雑した鉄道の駅や皇居前の広場、あるいは公衆便所などで発見される。肺炎にかかっていることが多く、市内の公立の孤児院に引き取られる。公立の施設は不潔で非衛生的な場所である。・・・米軍は混血児を引き取るつもりなど毛頭ないばかりか、その存在を消したいと考えていたことは明白であった」。「米軍が日本人女性に子供を生ませている現状が本国に明らかになる。軍はこのような道徳的頽廃を、ワシントンに知られてはならないのだった」。「美喜と進駐軍との戦いは、占領が終わる昭和27年(1952年)ごろまで続いた。サムス(GHQ公衆衛生福祉局長、准将)をはじめとする数名のなかなか手強い相手が、ホーム設立から4年というもの、手をかえ品をかえ、ホームの転覆を謀ったが、美喜は最後まで屈しなかった」。(情熱的読書人間・榎戸 誠氏のブログより)
これは私の解釈と推測でしかないが、美喜が目にした光景は、占領下の日本の荒廃を象徴していた。だから、米国によって破壊された国土で飢えに苦しみ、懸命に生きようとしていた日本人を人道さえ省みないところまで追い詰めた占領軍に対する怒りが爆発した。美喜は三菱財閥の創業者岩崎彌太郎の孫娘。占領下の財閥解体で痛めつけられたとはいえ、日本を背負ってきた岩崎家の令嬢であった。これは自分にしかできない。自分がやるしかない。美喜はそういう立場にあった自分を自覚したのではないかと思う。外交官の妻として広く欧米諸国を見て回り、孤児院を訪問した経験も役に立った。外交官の妻として磨いた英語力もGHQとの戦いに役に立った。孤児院のことばかりでなく、美喜は米軍に接収されていた岩崎邸や澤田邸の管理についてもGHQと掛け合わなければならなかった。

占領下で活躍した、マダム鳥尾、荒木光子、沢田美喜などについて知ると、さすが大和ナデシコと思う。しかし、パンパンやオンリーと呼ばれた女性たちについて思いをはせると、なんともやりきれない、やるせない気持ちに襲われる。占領軍と被占領民との力関係、男と女の力関係、勝ち組と負け組みの力関係が浮き彫りになって迫ってくる。さらには、占領軍に迎合して、彼らのうわべだけのきれいごとに踊らされる日本人。占領軍と文字通り体を張って向き合うほかなかった女たちから汚いものに蓋をするように顔を背け、やっかみ半分、勝者の偽善的な道徳を傘に着て非難する。最後には、「性の防波堤」になった女たちを犯罪者扱いして何の矛盾も感じない。性病対策も、女性たちに対する医療サービスというより、占領軍将兵の安全のために行われた「商品」の「品質管理」であった。進駐軍の憲兵による「狩り込み」と呼ばれる事件があちこちで発生したが、そこでは通行人であった女性たちが無差別に逮捕され、病院に連行されて膣検査を強制された。そこで強姦された者もいたという。占領軍が日本女性全員を性的征服の対象と見ていたことを如実に示す事件だった。

西尾幹二氏が戦時慰安婦に関する記者会見で見せた憤りは、日本人なら誰でも感じる欧米人の欺瞞と偽善に対する憤りであろう。しかし、残念ながら、日本社会はその欺瞞と偽善に迎合することに忙しかったことも自覚して反省しなければならない。未だに「従軍慰安婦制度というものが極度の人権侵害にあたるという事実には変わりはない。」などといっている連中も、「平和憲法」を念仏のように唱えて、現実の力関係を見ようとしない連中も、征服者の欺瞞と偽善に迎合しているだけであることを自覚する必要がある。

人類史上最も古い職業といわれる売春は、恣意的な道徳基準を押し付けることによってなくすことができるようなものではない。性がビジネスになじまない神聖なものであるかのように道徳で縛っておいて、強姦という形で冒涜することをなんとも思わない偽善者に慰安婦制度やセックスビジネスを云々する資格はないのだ。日本人の人間観も倫理観も知らない彼らは、自分たちのやってきた醜い行為を日本人に投影して日本人に罪を擦り付けているに過ぎない(チャンネル桜のいわゆる「従軍慰安婦問題」の嘘を参照)。もっとも、西洋文明もチャイナ文明も自分の私有財産権を声高に主張しながら、他者から強奪=レイプすることによって富を築いてきた文明なのだから、それを十分に見定めずに付き合って、その餌食にされたことを今更嘆いてもしかたがない。彼らの捏造した歴史の中では、日本がチャイナをレイプしたことになっているが、それは彼らなりの日本に対する賛辞だったのかもしれない。



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