2015/08/22

「過ちは繰返しませぬ」の心理的意味

広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」と刻まれている。そばに設置されている英文の説明板によると、その英訳は「LET ALL THE SOULS HERE REST IN PEACE. FOR WE SHALL NOT REPEAT THE EVIL」で、主語は「We」つまり我々になっている。日本語では主語が省略されているが、この「我々」とはだれか。





自由主義史観研究会の説明によると、この碑文の主語は誰なのかという論争が碑が建てられた1952年当初からあり、素直にとれば碑を建てた「広島市民」または「日本人」が主語になるから、自虐史観もはなはだしいという意見から、主語は「我々人類」だというこじつけとも聞こえるものまである。以下同研究会の説明を引用させてもらう。

極東国際軍事裁判(東京裁判)のインド派遣判事だったラダ・ビノート・パル博士は、1952年11月5日に原爆慰霊碑を訪れて黙祷を捧げた際に、「この‘過ちは繰返さぬという過ちは誰の行為をさしているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。落した者が責任の所在を明らかにして‘二度と再びこの過ちは犯さぬというならうなずける。この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり、日本を経済封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である」と述べています。また、1956年2月4日、日教組第五次教育全国集会に招かれたインドのセン書記長は、「繰返しませぬではなく、繰返させませんと叫ぶべきだ」と強調しました。」

さて、その碑文を書いた当の本人はなんと言っていたのか。それについても自由主義史観研究会の説明がある。


「この慰霊碑は広島平和都市記念碑として、1952年8月6日に序幕されました。当時の広島市長(濱井信三氏)の依頼で碑文に、この一文(安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから/Let all the souls here rest in peace; For we shall not repeat the evil.)を選び揮毫した英文学者の雑賀忠義(さいかただよし)教授は、前述のパル博士の発言に対して、「広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない」と抗議しました。」

パル博士の議論は誰もがすぐに納得できる。しかし、雑賀忠義教授の議論はわかりにくく違和感を感じる人も多いのではないだろうか。主語が「我々世界市民」だというのは、「僭越」にも原爆を落としたアメリカをも含む全人類を代表してこの碑文を書いたということだ。なぜ雑賀忠義教授は、被害者として謝罪を求めるのでも報復を誓うのでもなく、共犯者としてその罪の一端を引き受けるような表現を選んだのか。それは自虐ではないのか。ここではそれを心理学と宗教の観点から考えてみたいと思う。

被害者心理という観点から見ると、いつまでも加害者を恨み続けるのは精神的な傷をいつまでも引きずることになるので、恨み辛みをばっさり切り捨て、加害者を許すのが、早く立ち直る鍵である。だから、被害者は、加害者の罪を許そうと努力する。そうすることによって道義的に加害者の上に立つことができる。「あんなひどい罪を犯してかわいそうな人たち」という加害者に対する哀れみの感情さえ持つことができるのである。

いつまでもこだわって、そのうち仕返しをしてやろうなどというのは、加害者に残りの人生も左右されることになり、自分を加害者のレベルに落とすことにもなって、心理的には最も不健全な、傷を長引かせるアプローチである。社会的にも、あだ討ちのあだ討ちのあだ討ち。。。という悪循環が断ち切れない。江戸時代の日本人はそのことをよく理解していたから、あだ討ちにはお墨付きが必要だったのである。一方、中近東を始め、日本以外の国々では、あだ討ちのあだ討ちのあだ討ちは悠久の昔から続いていて、誰も止めることができないでいる。

歴史を紐解くと、実は似たような「僭越」な態度を取った宗教的指導者がいた。キリスト教徒が崇めるあのイエス・キリストである。キリストはローマ帝国の支配下にあった中近東に住むユダヤ人だった。キリストは、ローマ帝国から見ると、群集を煽動して騒ぎを起こす反逆者だったから、磔の刑に処されたということになっている。一方、キリスト教の解釈では、キリストは全人類の贖罪のために、進んで処刑されたことになっている。つまり、自分を単なる被害者とみなさないで、自分も人類の一員としてその罪を引き受け、頼まれもしないのに、自分を処刑したローマ人の罪まで背負って、僭越にもその贖罪を神様にとりなしたということらしい。

雑賀忠義教授の態度は、キリストの態度と大差ない、おこがましくも僭越な態度なのである。アメリカにとっても、その他の連合国の国々にとっても、彼らに代わって日本人が「過ちは繰り返しませぬ」などと勝手に宣言するのは、余計なお世話というものである。現実にかれらが、良くぞ言ってくれたなどと日本が代弁してくれたことに感謝しているなどということは一切ない。ローマ帝国だって、わけのわからないユダヤ人の神がローマ帝国の罪を許すかどうかなど全くどうでもいいことだったに違いない。

広島と長崎の犠牲者の死は太古の昔から人類が積み重ねてきた戦争という罪の一つの帰結である。被爆者であってもその歴史の流れから目を背けてはいけないという思いが雑賀忠義教授にはあったのであろう。だからその罪の一端を引き受けて共犯者として「過ちは繰返しませぬ」と誓うことを選んだのであり、自分たちを単なる被害者と捕らえないことによって、それが全人類への贖罪への呼びかけになるという仕掛けなのである。

連合国側は日本を原爆投下という罰に値する極悪非道の戦争犯罪人に仕立て上げたつもりだった。しかし、日本はあの原爆を逆手にとって、「あんたらのためにも「過ちは繰返しません」と誓っておいてあげるけど、いずれはあんたらもここに来て手を合わせなさい」という態度を取ることによって、日本は一方的に悪者扱いされることを拒否した。共犯者のスタンスを取って加害者にその共同責任を問うという関係を作ろうとしてきたと言えるのかもしれない。それが成功したかどうかはまだわからないが、追悼の慰霊祭にアメリカ政府から人が送られてくるようになったのは一定の成果を収めている証拠と言ってもいいかもしれない。

これが「過ちは繰り返させません」では「we shall not let them repeat the evil.」と言うことになって「我々=we」と「やつら=them」という対立を持ち込むことになり、一緒に誓いましょうと誘うわけにはいかなくなる。

ちなみに、キリスト教はローマ帝国下でその勢力を拡大し、最後にはローマ帝国を飲み込んでしまった。歴史は皮肉な展開をするものなのだ(十字軍や植民地での暴虐三昧を見ればローマ帝国がキリスト教を乗っ取って利用したという方が正しいと思うけれども。。。)


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