2017/05/12

日本軍を復活させようとしたGHQのウィロビー諜報部長


チャールズ・ウィロビー(Charles Willoughby)という名前に最初に遭遇したのは、Researching Japanese War Crimes: Introductory Essays(日本の戦争犯罪の調査:紹介エッセイ)2006年出版、というアメリカ議会の調査報告書の中であった。これはCIAの古い機密文書が公開されたとき、その中に日本の戦争犯罪に関する証拠が含まれているのではないかという期待から、アメリカ議会が、Interagency Working Group (IWG)という調査機関を作って、公開された全文書を虱潰しに調べる過程で作成された中間報告書である。

この日本人による戦争犯罪についての中間報告を読むと、あたかも日本軍が化学兵器や生物兵器を研究していただけでなく、実際に戦争に使ったという証拠がたくさんあるかのように書かれているが、実際には、噂や伝聞が報告されていただけで、確かな証拠はないし、目撃したアメリカ人もいないと次のように書かれている(これは生物兵器や化学兵器だけでなく、ほとんどすべての日本人による戦争犯罪記録に共通している。さらに言わせてもらえば、目撃者や被害者の証言もそれをサポートする別の証拠がなければ確かな証拠とはならないことは慰安婦問題でいやというほど見てきたし、目撃者の証言にいたっては、ほとんど当てにならないことを示す心理学的実験もいろいろある。)
The document also refers to several incidents of reported use of biological weapons by the Japanese in China, although it suggests that the evidence of these attacks is inconclusive. Finally, the new records also include a May 1945 intelligence report based on a CWS mission to China to investigate Japanese biological and chemical activities. The document describes several reported incidents of biological and chemical attacks, although it noted that no Americans had personally seen any of these.(66ページ)

しかも、この報告書の表紙にも使われている中国での大量殺戮の証拠とやらは、目撃した日本の軍医の日誌の1ページで、元のページは破かれていて、読みやすいように書き直したページで差し替えたものだと言うからあきれてしまう。そんな物が証拠になる訳がない。この部分を書いた人の名前がDaqing Yangと中国風であることも気になる。最終報告書には戦争犯罪に関して新しい発見は何もなかったこと、日本軍の戦争犯罪を見逃さないようにと圧力を掛けてきた「抗日連合会」というカリフォルニア州の中国系団体がいたことなどが書かれている。これについては、ケント・ギルバート氏の話も参考になる。

ウィロビーの話に戻ると、ウィロビーはGHQの諜報部長として占領下の日本で戦史の編纂や諜報活動を指揮した。そして公開されたCIAの機密文書(ウィロビーから引き継いだものもあったらしい)にはウィロビーの下で戦史の編纂や諜報活動をした日本人、主に元日本軍将校たちに関するファイルが含まれていた。戦史の編纂はウィロビーの得意分野であったらしく、1939年に『Maneuver in war』を書いて、古今東西(ナポレオン戦争、スペイン内戦、日中戦争、イタリア−エチオピア戦争)の主要な戦いを図解入りで分析している。詳しくは読んでいないが、日中戦争がどう戦われたかに興味がある人には重要な文献の一つであろう。日本が経済封鎖下で日中戦争をどれくらいの期間戦えるかも予想している。南北戦争や第一次世界大戦ドイツの例を取って4年持つかもしれないと言い、資源の産地である東南アジアを取りにくることも予想している。


The Confederacy fought on a shoe-string for four years; the Germans in 1914-18
were able to carry on; these historical precedents make predictions uncertain...
...
Its weakness is lack in strategic raw materials: oil, scrap iron, copper, lead, nickel. An embargo on these vital items* would not yield immediate results, since reserve stocks are undoubtedly available, but long-range pressure would be effective. Sanctions, however, are fraught with unpleasant consequences; they are not an easy half-way house between neutrality and war; it is hardly likely that the Japanese army and navy would bow to economic pressure and accept defeat without a struggle; it is for more probable that they would strike out for Netherlands-India, French Indo-China, the Philippines, Malaysia—any place within naval range which would provide oil, tin, rubber and iron.**
* The abrogation of current treaties is considered by many as the prelude of sanctions to be applied at a later date.
** Foreign Affairs, April 1939, "Japan at War.
(p 228-229)
占領後期、朝鮮戦争が勃発した1950年ころから占領軍の情報部(通称G2)に取ってかわったCIAは、G2の仕事を監視し、調査していたらしく、上記の中間報告の"The Intelligence That Wasn’t: CIA Name Files, the U.S. Army, and Intelligence Gathering in Occupied Japan"(名前だけの情報機関:占領下の日本におけるCIAの人物ファイル、米軍、諜報活動)セクションにはその評価の概要が報告されている。タイトルからも伺えるように、G2はまじめに仕事(反共諜報活動)をしていなかった、ろくな記録も残されていない、地下組織を維持していた日本の元軍人たちや右翼に金蔓として適当に利用されていただけだったという厳しいというより馬鹿にした評価であった(金蔓といっても、GHQの費用は日本政府が払わされたそうだから、占領軍の腹は痛まなかったことも覚えておく必要がある)。

元軍人たちの地下組織という話は初耳だったから、「さすがは日本人。転んでもただでは起きない。」などと思いながら読み進んだ。中心人物として挙げられているのは、Arisue Seizo, Kawabe Torashirō, Hattori Takushirō, Kodama Yoshio, Tsuji Masanobu, Kaya Okinoriである。聞き覚えのあった名前は児玉誉士夫(軍人ではなく、闇組織の親分)のみである。公開されたCIAの文書には彼らが戦犯だったか、またはその可能性があったかどうかの判断は書かれているが、その判断のもとになったはずの戦中に何をしていたかはあまり詳しく書かれていないという。占領軍に協力する条件として戦犯かどうかは不問に伏してもらったとか、戦犯ステータスを解除してもらったとか、袖の下を払って外してもらったとかいう人もいたというから、いい加減なものである。日本人は全員戦犯だと息巻いていたアメリカ人が多かったから、まぁ、そんなものかと思う。戦争を支持し推進した者は戦犯だという基準だから、反戦運動で左遷されたり牢獄に入れられていた連中以外はみな戦犯だった。牢獄に入れられていた反戦主義者や左翼はGHQによって「解放され」、アメリカがソ連と中共、共産主義者を危険視するようになるまでは我が世の春を謳歌していた。ゾルゲ事件で有罪になった者まで釈放された。

占領期間中、占領政策によって公職追放された元日本軍将校や政府高官、政治家、実業家、学者、ジャーナリストたちのネットワークと、彼らの生活を支えていた地下組織があったこと、それが占領軍によって支えられていたことは筆者にとって新しい発見だったが、これで戦後体制の謎を解く一つの手掛りがつかめたとも思った。しかも彼らは占領軍が手荒な報復に出た場合に備えてレジスタンス運動のための武器を日本各地に隠し持っていたという。CIA/占領軍はそれも知っていた。それについては有末精三に関係する次のような記述がある。
...in conjunction with other officers, he also laid plans to resist the U.S. forces should the occupation prove excessively punitive. The core of this resistance was to be a network of former classmates and students from the Nakano intelligence school who, among other things, buried secret caches of weapons across Japan and quietly maintained loose contact with one other.(199 ページ)。

マッカーサーはポツダム宣言に沿って、戦犯を洗い出して処罰し、軍国主義者(軍人)を権力の座から排除(公職追放)すること、軍事産業を解体して工場ごと中国に移動し、憲法を改定して日本が二度と歯向かうことができないようにすること、日本社会を「民主化」することなどを日本統治の課題として与えられていたが(日本はなぜ侵略史観・自虐史観を押し付けられたのかを参照)、部下たちの中には私腹を肥やすことや共産主義革命を促進することに熱心だった者も少なくなかったようだ。これについては、キサラギ・ジュンのGHQに関するブログが詳しい。

ウィロビーが同格の同業者、有末精三中将(元参謀本部第二部長=情報部長)を顧問に雇ったのは、IWGの中間報告によると1945年9月だったことになっているが、ほかの資料では1946年となっているから終戦直後の1945年は間違いであろう。いずれにしても、有末は厚木の飛行場に占領軍を迎える準備を指揮したから、米軍にはなじみの顔だった。しばらくイタリアに留学・駐在していたから国際感覚もあった。有末は回想録を出していて、それについて書かれたブログがあちこちにあるが、それらを総合して考えると、有末は英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語を話せた上に、人あしらいが上手だったらしい。ドイツ生まれで18歳までヨーロッパで教育を受けたウィロビーは強いドイツ語なまりの英語を話したというから、ヨーロッパ滞在の経験があり、ドイツ語もでき、ファシストのムッソリーニに心酔していたという共通点まであった有末はうってつけだったに違いない。有末の手記には、ウィロビーが占領軍内の対立についてしばしば有末に愚痴をこぼしていたと書かれているという。同じく有末と前後してGHQの顧問になった河辺虎四郎もドイツ駐在の経験がありドイツ語ができたらしい。ちなみに、河辺は占領軍を迎える(降伏、武装解除する)手順の打ち合わせの責任者としてマニラまで出かけていたから、やはり敗戦日本の事務方の代表として米軍にはなじみの顔であった。

昭和20年8月19日、マニラへ。降伏協議を行うため沖縄の伊江島に降りた参謀次長河辺虎四郎中将以下降伏使節団。伊江島への着陸場面から米軍C-54に乗り込みマニラへ飛び立つまで。(下のウィロビーと河辺の写真はそのときのマニラでのものと思われる。)

余談になるけれども、元軍人のネットワークといえば、幼いとき(占領時代)、父の戦友だったらしい人がたまに訪ねてきたことを覚えている。その中に旅回りの写真屋がいたらしく、そのときに家の前で撮ってもらった家族写真が残っている。勝手な想像だったのかもしれないが、なぜか幼いときからそう思っていた。父は満州にしばらく駐屯したあと、四国の部隊で終戦を迎えた一兵卒にすぎなかったから、地下組織がそこまで延びていたのかどうかはわからないが、年賀状のやり取りが長年続いていた。

公職追放になった元軍人や政府高官、さらには実業家や学者、ジャーナリストにかわって、要職を埋めたのが、左寄りの人間で固められていたGHQ民政局が自由にさせていた左派系勢力や反戦反日勢力であったことを考えると、このとき形成された陰の組織(右派)と表の組織(左派、反戦反日)の対立が戦後日本の勢力争いの底流となっただろうことは容易に想像できる。

GHQ民政局がいかに左寄りだったかについては『しばやんの日々』の「アメリカがGHQの中の左翼主義者の一掃をはかった事情」に次のような引用がある。
「総司令部の各部局に在職している外国分子を統計的に分析してみると、ソ連またはソ連衛星国の背景をもった職員の割合がかなり高い。GHQに雇われている(無国籍者を含む)304人の外国人のうち、最大グループを形成する28%(85名)はソ連またはソ連衛星国の出身である。そのうち42名はソ連の市民権の持ち主である。通常の治安概念からみれば、このグループは事実上の脅威となるはずである。ことに最近ソ連は、元の白系ロシア人の全員、および無国籍者をソ連市民として登録してきているからなおさらである。GHQ従業員のうち199人は帰化した『アメリカ市民権取得者の第一世代』となってはいるが、もともとはソ連またはその衛星国の背景を持つ者である。 したがって、これらの者のなかですでに左翼主義者として知られていたり、同調者として知られている者の占める割合は決定的なものである。…」(『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』p.177)

数年前にIWGの中間報告を読んだとき、ウィロビーもGHQも裏でいい加減なことしてたんだという印象が残っただけでそれ以上の興味はわかなかった。しかし、ウィロビーはCIAが言うように、元東大教授の妻で日本政府にGHQに関する情報を流していた荒木光子という女を愛人としてあてがわれて、日本の元軍人に金蔓として適当に利用されていた間抜けだったのだろうか。最近、荒木光子と当時の元軍人の地下組織とウィロビーに関する情報を追いかけてみて、そんなはずはないという思うようになった。

ウィロビー 1918(Wikipediaより
ちなみに、英語のウィキペディアを読むとウィロビーを揶揄中傷するような書き込みが目立つことにも気がついた。朝鮮戦争のとき、中国の参戦意図を読めずに、間違った情報分析をワシントンに上げたとかいうアチェソン国務長官の主張が今でも幅を利かせているのだろう。遺族会のような団体で出しているウェブサイトのウィロビーのページには、ウィロビーは専門の経験もなく訓練も受けていなかったのに、インテリジェンス部長なんぞに任命したのは間違いだったとか、わかりもしないのに戦史なんぞを書いて出版したのはけしからんとか書かれているのも、それが通説だからであり、朝鮮戦争の裏事情を知られたくない勢力が勝ったからであろう(注1)。それにウィロビーは、ゾルゲのスパイ事件に目を付けて、その調査分析報告(Shanghai Conspiracy)を出し、アメリカにおける親共スパイの摘発(レッドパージ)に貢献したばかりでなく、占領軍の中に巣食っていた親ソ派/共産主義者を一掃したことも知る人ぞ知るだから、今もウィロビーを目の敵にして、ウィロビーを沈黙させようとしてきた人間が世界中に少なからずいても不思議ではない。
注1:
ウィロビーは『MacArthur, 1941-1951』の第15章と16章で朝鮮戦争でのマッカーサーとワシントン/ペンタゴンの対立、ワシントンの「敗北主義」について詳しく説明し、汚名を晴らそうとしている。一方、朝鮮戦争でのウィロビーの「手落ち」について多くの本や論文が書かれてきた。その一つ(2009年に書かれた修士論文)にざっと目を通してみたが、ウィロビーの「トルーマン大統領が満州の空爆を許可すればシナ解放軍は朝鮮に攻めてこなかったはず」という主張の正当性が無視されてきたことは疑惑を呼ぶ。ワシントンにはマッカーサーとウィロビーの失脚を画策していた勢力があったのではという見方がこの論文でも全く欠落している。ウィロビーは『MacArthur, 1941-1951』の最後の章でマッカーサーがなぜ解任されたのかを考察しているが、台湾と朝鮮をどうするかについて、アチェソン/トルーマンが共産主義国(中共とソ連)と結託してマッカーサーに無理難題を吹っかけていたとしか思えない。それにはCIAも加担していた。公開されたCIAの機密文書を調べたIWGリサーチャーが、根元博をはじめとする旧日本軍の軍人たちが中国共産党軍の台湾への侵入を防いだことを全く評価していないのもそれを反映してのことに違いない。朝鮮戦争勃発の半年前、1950年1月の記者会見でアチェソン国務長官が台湾と朝鮮をアメリカの防衛圏内に含めなかったことが何よりもそのことを雄弁に物語っている。さらにウィロビーは、日本の経済開発に英国が利権を獲得しようとして干渉してきたのをマッカーサーが阻止したこともマッカーサーの解任に影響していたと見ている(MacArthur, 1941-1951』p 349)。香港を拠点として大量の軍需物資が連合国諸国から中国に輸出されていたこと、その物資が兵と共に北朝鮮の近くに集結されていたことも朝鮮戦争の背景としてウィロビーはつかんでいた。中国は朝鮮に介入する意図はないと言っていたのはCIAとアチェソンだった(同書の第16章)。日本も朝鮮特需でそのおこぼれにあずかったが、死の商人とその後ろに控える英米や西ヨーロッパ諸国は、戦争で疲弊した経済を立て直すために、そしてソ連の注意をそらすためにも、ヨーロッパ以外の地域で戦争を続けてもらう必要があったのだ。それに比べれば、毛沢東を支援したトルーマン政権にとって朝鮮における共産主義の脅威などたいした問題ではなかったのであろう。朝鮮戦争でトルーマンや国連がとった煮え切らない態度、マッカーサーの手を縛るような命令、決着を付けずに一発触発状態が維持されてきた歴史、などはそう考えなければ理解ができない。今日の北朝鮮問題も韓国問題もその延長上にあるのである。
マッカーサーは朝鮮戦争で中国に原爆を落とさなければ勝てないと言ったために解任されたという話を鵜呑みにしていたが、それは悪意に満ちたプロパガンダだったのだ。トルーマンは赤軍の朝鮮への侵入路となる橋を落とすための空爆さえ許可しなかったのだ。さらに、トルーマンはこの悪意に満ちたプロパガンダによって大統領選を目指していたマッカーサーの政治生命を断つことができたのだ。

「willoughby kawabe manila」の画像検索結果
マニラでのウィロビーと河辺
Masako and Spam Musubi より
ウィロビーは上の若い頃の写真を見ても、左の終戦直後の写真を見ても、繊細で知的な感じがする。

「Ddogのプログレッシブな日々」というブログの「①『GHQ知られざる諜報戦 副題:新版ウィロビー回顧録 C.A.ウィロビー/著(山川出版)』を読む その1」には、ウィロビーは日米は戦うべきではなかったと言ったことがこの回顧録の冒頭に次のように記載されているとして引用されている。ちなみに、この回顧録はウィロビーが1956年に出したMacArthur: 1941-1951: victory in the Pacific (日本語版、知られざる日本占領―ウィロビー回顧録 (1973年)は延禎(GHQの特殊工作組織であったキャノン機関所属の情報官)という朝鮮人が訳している)を元に編者の平塚氏がウィロビーを引退先のフロリダに訪ねて聞いた話しを追加してまとめたものということで、回顧録といっても、ウィロビー自身のことはほとんど書いていない。彼のボスであるダグラスマッカーサーと連合国の日本占領時代と1950年に起きた朝鮮戦争当時の事件に関することが中心になっている。
この回想録をまとめるにあたって、私がまず第一に言いたいことは、太平洋戦争はやるべきではなかったということである。米日は戦うべきではなかったのだ。日本は米国にとって本当の敵ではなかったし、米国は日本にとっての本当の敵ではなかったはずである。歴史の歯車がほんの少し狂ったせいで、本来、戦うべきではなかった米日が凄惨な戦争に突入したのだから。
私が書いたもののすべての基調となるのは、日本との戦争、あるいはドイツとの戦争は西側の自殺行為であったということである。たとえ日本がどんな誤りを犯すとしても、どんな野望を持つとしても、米国が日本を叩きのめすなら、それは日本という米国にとっての最良の防壁を自ら崩してしまうことになるのである。ところが、あの不幸な戦争の結果、ロシア、中国を牽制してあまりあったはずの日本およびドイツの敗戦のゆえに、現在(編注:1971年現在)では、共産主義国家とされているソ連、かつてのツァーリ支配下のロシアそのままの圧政をしくソ連の指揮による破壊転覆の異常な発達が、今日われわれにとっての頭痛のタネとなっているのである。
共産主義国家のいわゆる『革命の輸出』と呼ばれる破壊工作は、もし、わが国が日本を東洋の管理者、ドイツを西洋の管理者にしていたなら、けっして現在のような脅威の対象にはならなかったはずである。わが国はこれら二国と協働戦線を組むかわりに、破壊してしまった。…
これだけでは、ウィロビーは日米は共産主義国家に嵌められて開戦したと理解していたかどうかははっきりしない(ソ連の工作はウィロビーが調べたゾルゲ事件に加えて、Venonaプロジェクトで戦前からのソ連の暗号通信が戦後大量に解読された結果いっそう明らかになった)が、ウィロビーは日本を反共の防壁として再武装させるために、ドイツがやったように、日本軍の中核を温存し復活させるつもりでいたことは間違いない。ウィロビーが1954年に出した『MacArthur, 1941-1951』にもそれに近いことがマッカーサーの見解として書かれている。
He anticipated the day when strong allies would again be needed in the East and West to contain the growing communist threat, when Japan and Germany would be asked to rearm in their traditional role of a bulwark against Soviet imperialistic encroachment.
(P-327)
だから、ウィロビーが元日本軍の地下組織に戦史の編纂と諜報活動を請け負わせるという形で資金を提供し、密輸などで資金を稼げるようにしてやっていた真の目的は日本軍の頭脳となる人材の温存だった(Tessa Morris-Suzukiによる論文 10ページ)。それでは、なぜアメリカはドイツにやらせた再軍備を日本にはやらせなかったのか。議会を通すと時間がかかるから政令でできる範囲で再軍備を行うためという理由で、警察予備隊と呼んだが、中身はなんとでもなったはずである。実際に、装備は国防軍に必要な物をアメリカ軍から受け継いだのだから。

IWGの中間報告には、マッカーサーはCIAとその前身のOSSを毛嫌いして、日本での彼らの活動を制限していたと書かれている(P-198)。マッカーサーは反共で知性派のウィロビーを右腕として信頼していたと言われているが、戦前のフィリピン時代からの腹心、ホイットニーをそれ以上に信頼していたのではないかと思われる。情報部のウィロビーと民政局のホイットニーとの対立、ウィロビー/マッカーサー対CIA/トルーマン/アチェソン国務長官の対立、日本の陰の組織と表の組織の対立は、次に見るように、1950年に朝鮮戦争が勃発し、日本に軍隊を復活する必要に迫られたときに鮮明となった。マッカーサーは朝鮮戦争でトルーマンと対立したために解任され、日本の再軍備が軌道に乗る前、1951年4月に突然日本を去るよう命令された。ほどなくウィロビーも去った。南朝鮮は元々マッカーサーの管轄ではなかった(CIAと国務省の管轄だった)にも関わらず、マッカーサーが窮地を救ったのにである。ウィロビーの説明を読むと、マッカーサーが朝鮮での戦況を有利に展開すればするほど、トルーマンは増々マッカーサーの手足を縛るような命令を出し続けた。つまり、始めからマッカーサーとウィロビーを朝鮮戦争で失脚させるシナリオが用意されていたということなのだ。

軍隊(警察予備隊)再編時の騒動は『秘録・日本国防軍クーデター計画』(阿羅健一著)が詳しく掘り下げている。結局日本の再軍備は中途半端に終わり、服部卓四郎が設計していた国防軍の組織から頭脳となる将校の上層部が排除され、軍隊として機能できるようなものにはならなかったということである。それでも、吉田首相は半年後には渋々将校も採用するようになったが、当初は実戦の経験のない若い世代の将校だけだったらしい。上級将校は公職追放がまだ解けていなかったが、それもGHQの号令一つで解除できたはずであるが、服部の計画通りに再軍備を進めようとしたウィロビーは、再軍備に反対した吉田首相と組んだ民政局のホイットニーに公職追放中の将校たちの採用を反対されたらしい。吉田が旧日本軍の将校たちの採用を拒否した理由として「私は旧陸軍にさんざんいじめられた男だよ」と言ったそうだが、それだけで自国の安全保証に関わる重要な問題を決めたのだろうか。吉田茂が英国大使だったことに関係している可能性は考えなくていいのだろうか。 吉田茂は取り巻く人間を通して、ロスチャイルド(英国籍)の影響を受けていたという人もいる。これまで調べた中では、ウィロビーを除いて、当時、英国がどのような影響力を持っていたのかについて言及している人はいない。

IWG報告書は戦争犯罪に焦点を絞っているので、それ以外のことはあまりわからないが、当時の日本の政治勢力と陰の情報機関の勢力およびCIAの関与に注目して、公開されたCIA機密文書の人物ファイルを調べたTessa Morris-Suzukiによる論文(上下:日本語版もある)がある。この論文については改めて書こうと思うが、それによると、歴代の主立った政治家またはそのアドバイザーがCIAの協力者だった(多分今でも?「日本の中のCIAエージェント」を参照)。コード名までつけられていた。吉田首相はアメリカからの圧力で警察予備隊に旧日本軍の将校も採用すると決めたということだが、その当時、吉田首相が軍事顧問として頼りにしていた旧軍人の辰巳栄一にも、POLESTAR-5というコード名付きで人物ファイルが残っていた。

つまり、占領時代に確立されたアメリカの属国という地位は、主権を回復した後も、外交ルートと諜報ルートを使って維持され、日本の政府も官僚も、日本の利益を独自に追求する政策を考えるという経験を積み重ねることなく、アメリカさらには中共やソ連に言われるままに政策を策定し、法律を作ってきたということなのではないか。今日見られる、日本政府や外務省、さらには財務省の国益を損なうような奇妙な言動は、国策を独自に構築した経験がないことを露呈している、あるいは国益など考えずに、国外の勢力に迎合して言われるままに国を運営していると考えなければ、理解できない(ワシントンD.C.に長年住んで日米関係を観察してきた伊藤貫の話も参考)。これは、冷戦終了後、アメリカが経済戦争に焦点を移し、日本を第一の敵と特定したこと、その頃から日本の経済政策が日本経済を疲弊させる方向に舵が切られたこととあわせて考えると一層納得できる話である。これについては、ネオコン系の民間シンクタンクCSIS(Center for Strategic and International Studies;戦略国際問題研究所)が日本支配の本丸であると指摘する人もいる

川村淳一氏のブログ「『秘録・日本国防軍クーデター計画』(阿羅健一著)の紹介(全2回/第1回)」によると、この本には「戦後旧軍高級将校らが、私利私欲からではなく、純粋な気持ちで国防軍を創設したいと願って行動するが、それに対し内務省出身者や一部の政治家たちが、自らの勢力の回復・維持・拡大などのために反対したことが述べられている。」それについて詳しくは、川村氏のブログと引用されている本を読んでいただくとして、ここでは氏のブログに引用さているウィロビーと荒木光子についてもう少し見ていくことにする(残念ながら、電子版がなく、米国からはすぐに入手できないので本は読んでいない)。
松本清張は、服部卓四郎と辻正信との交友関係、国防軍創設を唱えた服部とそれに反対した吉田茂との関係及びGHQ参謀第2部長・ウイロビー少将と強い繋がりがあった荒木光子を書こうとしたが、執筆を決めた十日後の平成4年4月13日に脳溢血で倒れ、8月に亡くなった。
ということで、占領下の日本で重要な役割を果たした荒木光子についてインターネットで調べることができるのは断片的な情報だけのようだが、次のような記述もある。
光子は美人で男まさりであり、東條英機夫人の勝子とも親しい間柄であった。彼女は編纂の指揮を執り、経費の采配も振るった。ウイロビーと直接会えるのは光子だけであり、専用の車も持っていた。いっぽう、民政局次長のケーディス大佐は、鳥尾(とりお)子爵夫人の鶴代(つるよ)と恋愛関係に陥り、日本人の中には、鶴代にケーディス大佐へのとりなしを頼む者もいた。しかし、昭和23年ころからは、日本弱体化政策から日本重視政策に変わり、ケーディスが進めていた民主化が見直されて、彼は帰国する。ケーディスは離婚し、鶴代の夫は亡くなり、代わりに莫大な借金だけが残った。
服部がウイロビーの信頼を得ることになった要件の一つに、荒木光子の引きもあった。光子は東大農学部教授兼経済学部教授であった荒木光太郎の夫人である。光太郎は反マルクス主義であったため、戦後復活したマルクス主義の大内兵衛(おおうちひょうえ)に大学を追い出された。そして、昭和21年4月に日本商工会議所専務理事に就いた1年後に、戦史編纂の長となった。
「ウイロビー少将は荒木夫妻に日本共産党の調査を依頼し、荒木夫妻は服部に相談して、橋本正勝と水町勝城が直接任務に当たった。当時、ソ連から引き揚げてきた将兵は舞鶴で「スターリン万歳」をしてそのまま代々木の日本共産党に行って入党手続きをしていた。荒木光子はウイロビー少将の期待を一身に受けて活動した。」
 さらにウィロビーについて
 「また、辰巳中将は、昭和25年ころ、ウイロビーが、「講和ができたら米軍は撤退することになる。そのときは、日本は自分の力で国を守らねばならぬ」と明確に述べたと、著者・阿羅健一に証言した。マッカーサーに次ぐ地位の第8軍司令官・アイケルバーガー中将やマッカーサーの後任のリッジウェイ中将も同様の考えであった。」
ちなみに、日本国防軍クーデター計画についてはIWGの中間報告でも、次のように服部ファイルからの情報として触れられている。
In July 1952, Hattori hatched a plot to conduct a coup by murdering Yoshida and replacing him either with the more sympathetic Hatoyama Ichirō or Ogata Taketora. Despite his initial enthusiasm, Tsuji convinced Hattori to hold off his coup d’etat as long as the conservative Liberal Party was in power...Nevertheless, the group did consider murdering other government figures to send a message to Yoshida. (p 214-215)
吉田首相の暗殺を考えていたらしい。見せしめに別の政府要人を暗殺することも考えたとある。首相が鳩山一郎または緒方竹虎なら服部の計画通りに軍隊を復活できると期待していたようだが、1954年に鳩山内閣が誕生しても文民統制が歪めて解釈され、制服組が防衛庁/省の中核に配置されるようにはならなかった。それは、第二次阿部政権の元でつい最近ようやく実現したにすぎない。

ウィキペディアの服部のページには「服部自身の自衛隊への入隊は叶わなかったが、服部機関出身者は自衛隊に幹部として入隊しており。。。」とあるから、政府や官僚が旧高級将校の採用を禁止するなどという愚かしい政策を維持できなかった背景には、アメリカからの圧力に加えて、1952年に主権を回復して公職追放が解除された後は、再軍備反対勢力の力が相対的に弱まったからなのかもしれない。

荒木光子についてインターネットでさらに調べると、牧野邦昭(摂南大学)による『荒木光太郎の経済学研究と活動』に次のような記述がある。
「妻の光子(1903-1986)は三菱本社理事の荘清次郎の娘であり、社交界で著名であった。後述する荒木の「ネットワーク」が形成される上で光子の果たした役割も大きいと考えられる。。。荒木は 1945 年 11 月 17 日に東大を辞職し、その後GHQ参謀第二部(G2)でチャールズ・ウイロビー 少将が服部卓四郎や有末清三、河辺虎四郎、大井篤などの旧陸海軍将校を集めて行っていた太平洋戦争 戦史編纂の日本側チーフ・エディターを務めた(アメリカ側チーフ・エディターは「プランゲ文庫」で 知られるゴードン・プランゲ)。実際の戦史編纂には妻の荒木光子がかなり関与したようである。「荒 木光太郎文書」にはこの戦史編纂の原稿が所蔵されており、占領下におけるGHQおよび旧軍人の活動を 知る上で貴重な資料である。。。残された資料や著作を見る限り荒木は仕事に熱心に取り組む傾向にあり、また多くの人が荒 木の温厚さを証言している。こうした荒木の性格が荒木を様々な研究会・機関の創設・運営に関わらせ ることになったと考えられる。これに加えて妻の光子が三菱財閥と関係がありかつ社交界で活躍したことで、荒木は「日本と海外」、「学界と財界・官界」、「学界における様々なイデオロギー」などの異なる 領域を結びつける役割を果したといえる。。。城島氏は荒木光子の推薦で戦後第 1 回フンボルト留学生としてドイツに留 学し、名古屋大学とフライブルク大学との共同研究に関して荒木光子をよく訪問しており、『荒木光太郎 教授追悼論文集』の刊行に尽力している。特にドイツ関係の「荒木ネットワーク」の継承者といえる。。。東大 経済学部で安井琢磨と荒木との両方に学んだ大石泰彦は荒木の死後に荒木光子に頼まれて蔵書を整理し、 それは近畿大学に納まったはずであるとしている」

荒木光太郎文書解説目録』の注記には、光子について夫、荒木光太郎との関係で次のような記載がある
「1921 年に三菱本社理事の 荘清次郎の娘の光子(1902-1986)と結婚している。光子はその後、社交界など幅広い分 野で活躍し、後述する荒木の「ネットワーク」が形成される上で光子の果たした役割も大 きいと考えられる。」
「河合栄治郎編『学生と西洋』(日本評論社、1941 年)の「執筆者略歴」荒木光子の項による(745 頁)。光太郎・光子の結婚式に出席した高橋誠一郎は、仲人の青木菊雄(1917 年時点で三菱合資 会社総務部専務理事、世界公論社編・刊行『進境の人物』1917 年、239-242 頁)から、「自分 は、ほんの頼まれ仲人にすぎない、荒木家に画を学ぶために出入りしておられた光子嬢と同家の 御曹司光太郎氏との間には、すでに久しい以前から赤い縁の糸が結ばれていた」という挨拶を聞 いたという(高橋誠一郎『経済学わが師わが友』日本評論新社、1956 年、59 頁)。齋藤潤氏(荒 木光太郎令孫)によれば、光子の兄の荘清彦(のち三菱商事社長)と荒木光太郎が東京高等師範 学校附属中学校の同窓生だったので、光子は兄の勧めで光太郎と結婚したのではないかというこ とである」
「『学生と西洋』の「執筆者略歴」荒木光子の項では「英・独・仏に遊ぶ」となっているが、『東 京大学経済学部五十年史』の「経済学部教授・助教授略歴(五十音順)」には荒木の留学先は「独・ 英・米・仏」とされており(1047 頁)、戦前の荒木の略歴にも「英、独、仏、米各国に留学」と ある(「講演者の略歴」『経済倶楽部講演 昭和 14 年第 34 輯』東洋経済出版部、1939 年、69 頁)。荒木は 1927 年の随筆で「欧洲を去つて米合衆国に行けば」と書いてニューヨークでバス に乗った際の様子を述べている(荒木光太郎「車掌用語感」『法律春秋』第 2 巻第 4 号、1927 年、57 頁)ため、ヨーロッパからの帰路にアメリカに立ち寄ったと考えられる。」

日本には未だにゾルゲと尾崎のファン(後継者?)がいるらしく『「ゾルゲ・尾崎墓参会」(2007.11.11)講演記録』なるものが公表されているが、加藤哲郎一橋大学教授による講演記録には荒木光太郎、荒木光子夫妻についての次のような記述がある。
「同盟国在日ドイツ大使館のパーティの常連で、 しばしばオット大使夫妻やゾルゲと会っています。 この荒木夫妻のことが活字になっているのは、米 国の有名な歴史学者ゴードン・プランゲの『ゾルゲ 東京を狙え』(日本語版上下2巻、原書房、1985 年) です。この本の冒頭に「ゾルゲ事件」に登場する主 要人物という人名案内があって、「東京社交界の名 花」として「東大教授荒木光太郎夫人」荒木光子が 載っています。ゾルゲ事件のドイツ側の事情に一番 詳しい日本人として、彼女の証言は、プランゲの本の中に何箇所も出てきます。とくにゾルゲの女性関係についての記述のほとんどは、この荒木光子へのインタビューによるものです。。。
ウィロビーの忠実な部下として、プランゲの下で 使われた日本人の中に、先ほど言及した荒木光太郎、 光子夫妻がいます。荒木光太郎が、日本側の代表・ 編集主任でした。荒木は戦時中の東京帝国大学経済学部の戦争協力の中心人物の1人で、敗戦で東大を 追放されるのですが、ウィロビーが身柄を引き取っ て、利用したのです。 荒木光子夫人は、ウィロビーの愛人と言われたほ どの実力者でした。吉原公一郎の『謀略の構図』(ダ イヤモンド社、1977 年)では、民政局(GS)のケ ーディス大佐と鳥尾子爵夫人の関係にあたるのが、 G2 ではウィロビーと荒木夫人の関係だと出てきま す。」
IWG中間報告には次のような記述もある。
G-2’s Historical Branch in the Nippon Yusen Kaisha Building (NYK) was the hub of this activity. Through Arisue, G-2 recruited and employed some 200 former Japanese officers to assist historian Gordon Prange’s work on the history of MacArthur’s Pacific campaign.(213ページ)

つまり、荒木夫妻が深く関わっていた戦史編纂のために、ウィロビーは有末を通して元将校を200人ほど雇い、そのために日本郵船ビルを使用していた。

GHQが接収して使っていた建物は戦火を免れた堅牢な西洋建築の邸宅やビルだったが、三菱の建物もその中に含まれていた。上記の日本郵船ビルもそのひとつだった。光子はそこにオフィスを持ち、専用のジープも提供されていたとか。また、Z(キャノン)機関とよばれたGHQの秘密工作機関は旧岩崎邸を使っていたという。建物の接収は三菱とGHQの関係の氷山の一角にすぎなかったに違いないが、三菱=岩崎家さらには日本の政財界が、三菱の大番頭の娘、光子とGHQとの関係を利用しなかったなどということは考えにくい。

日米戦でのウィロビーの手柄の一つは、日本で教育を受けた日系二世(4000人余)を情報部に集めて、日本語の情報を素早く読解できる体制を作ったことである。彼らは占領期間中も通訳や翻訳、情報収集で活躍した。IWGの中間報告に次のような記載がある(ATISというのはその翻訳部隊のことである)。
General Willoughby acknowledged the accomplishments of ATIS and the Nisei translators, noting they “… saved over 1,000,000 American lives and shortened the war by two years … they collected information on the battlefield, they shared death in battle … in all they handled between two and three million Japanese documents. The information received through their special skills proved invaluable to our battle forces.”(161ページ)

父親がウィロビーの情報部で働いていた日系軍人だったという人のブログも参考になった。家族や親族の中には日本軍で戦った者、アメリカ軍で戦った者、アメリカの強制収容所に押し込められた者がいたという。荒木光子に関する情報もある。
In his efforts to make his recorded history unique, Willoughby paid Mitsuko to find and compensate artists who could paint battle scenes from Japanese eyes.  He felt photos were too ordinary plus many were from US sources. Mitsuko went about Tokyo seeking artists to paint war scenes from the Japanese point of view.  This task was made much easier as Willoughby gave her permission to ride about in her own private jeep.  This was a definite indicator of his affection for Mitsuko as all Japanese women were prohibited from even riding in any Allied military vehicle, let alone have one assigned to her...
光子は日本側の戦史に挿入する挿絵を画家に描かせるための資金をウィロビーからもらい、画家を雇うために東京中を専用のジープで飛び回っていたが、ジープはウィロビーの特別な計らいによるものだった。ウィロビーがいかに光子を気に入っていた(重要視していた)かがわかる。(荒木家とのつながりで画家を探すのに苦労はしなかったと思われるが。。。)そのとき画家に払ったお金が多すぎると騒いだ人々がいたという。

ウィロビーがまとめた戦史は4冊に分かれていて、“Reports of General MacArthur Japanese Operations in the Southwest Pacific Area Volume II”の1と2が日本側の戦史である。挿入されている絵は全体に鈍く暗い色合いのもの、夜のシーンであろう、が多い。この4冊はいくつかあるアーカイブ・サイトの一つからpdfその他のフォーマットでダウンロードできる(開戦の詔書のコピーが左右反転(裏返し)になって印刷されているのはなんとも残念だが、pdf版をAcrobatで反転すれば読むことができる)。

Reports of General MacArthur – Japanese Operations in the Southwest Pacific Area Volume II Part II”, 595ページ

同姓同名の別人かも知れないが、荒木光子らしき人の写真はインテリアコーディネータの村上英子さんのページにあった。下の写真の女性が働いていたパシフィックハウスというインテリア設計事務所に村上英子さんが入社したのが1956年だというから、この写真は1956年以降に撮られたものであろう。ウィロビーは1951年4月に日本を去ったマッカーサーの後を追うように日本を去り、夫の荒木光太郎は1951 年 9 月 29 日に肝臓病で死去。1952年4月にはGHQに接収されていた建物が返還され、4月28日に日本は主権を回復した。服部卓四郎(元参謀本部作戦課長)がウィロビーの下で日本側の戦史の編纂をしながら、GHQの目を逃れて別途編纂していた『大東亜戦争全史』は1953年に出版された。だから、1956年には光子はGHQや戦史編纂に関係した仕事から解放されていたはずである。そのころ光子は50代なかば、写真の人の年格好とも矛盾しない。光子は「荒木家に画を学ぶために出入り」していたというからインテリアというのも納得できる。海外生活、マニッシュ、などという記述から考えてほぼ間違いないと思う。


尊敬する人は、インテリアの恩師である荒木光子女子。荒木光子女子
故荒木光子女子。着物姿は珍しかったとのこと。

 私のインテリアの恩師は荒木光子女史です。
 荒木さんはその当時にして、ヨーロッパをはじめとする海外生活が長く、英語、仏語と語学が堪能でした。多くのヨーロッパの文化人と対等に交流し、本物を知っていました。そして、おしゃれで、マニッシュなスーツと帽子がよく似合う素敵な方。私がいちばん尊敬する方です。

荒木家の光子(1904-1986.6.5)の墓には十字架とフランシスカという戒名/クリスチャン名が刻まれているそうだ。

ウィロビー(1892 – 1972)の墓は軍人のためのアーリントン国立墓地にある。

※占領下の日本を舞台にした青少年向けの探偵小説を書いている檜原まり子というミステリー・ライターがいる。『華族探偵』というシリーズで1から3まである。当時の雰囲気を知るにはなかなかよい読み物になっている。 
   

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