2015/12/20

ハル松方ライシャワーの Samurai and Silk を読んで


日本で生まれて14歳まで日本で過ごしたエドウィン・O. ライシャワーが1961年から1966年まで異例の学者大使としてアメリカから派遣されてきた。さらにライシャワー夫人(ハル松方ライシャワー、19151998)が日本人だったことから、日米間の架け橋としてこれ以上の人材はいないと思われるこの大使人事を日本国民は大歓迎した。当時、中学高校時代だった筆者の意識にも ライシャワー大使の名前は浸透していたように思う。ライシャワー夫人が書いた本が出版されたという話しを昔聞いたとき、アメリカに留学してアメリカ人と結婚していたこともあって、そういう世界の人はどんな背景とどんな事情で国際結婚したのかという好奇心を抱いていた。それが頭の隅に残っていたのを思い出したのが、この本を読むきっかけだった。



ネットで検索したら、ハル松方ライシャワーが書いた本は、初版が1986年の Samurai and Silk: A Japanese and American Heritage (日本語訳は『絹と武士』)のみであることがわかり、さっそくAmazonの古本で買って読んでみた。届いた本は図書館の貸し出しカードが入ったまま、バークレー・パブリック・ライブラリのスタンプが押してあった。最後の貸し出しの日付は1998318日となっている。ハル松方ライシャワーが亡くなった年である。ライブラリに重複する寄贈があって、古本として処分されたのかもしれない。あるいは、借りた人が返却するのを忘れてそのままになっていた本が古本として処分されたのかもしれない。開いてみると、所々に単語の訳と思われる漢字の書き込みがあり、ある時点で日本語を母国語とする人が読んでいたことがわかる。

本の内容は、ハル自身の生い立ちよりは、母方と父方の祖父の生い立ちと足跡をたどる話が主体になっている。父方の祖父は薩摩藩出身、明治維新の元勲の一人として日本の金融と財政のシステムの基礎を整備した松方正義(18351924)、母方の祖父は群馬の豪農出身、20才でアメリカに渡って永住し、生糸の対米輸出事業を成功させ、富国強兵に必要だった外貨獲得に貢献の大きかった新井領一郎(18551939)である。「侍」というのは父方の祖父の人生を、「絹」は母方の祖父の人生を指している。


この本の魅力は、維新前夜から日米開戦前夜までの日本史を、その形成に深く関わった松方正義と新井領一郎という二人の個人の人生に重ねてたどることができるまれな歴史本になっていることである。歴史的な事件とその関係者の名前や年代を羅列した歴史の教科書よりはるかに面白いし、その経緯もわかり易い。しかも、松方正義が書いた記録や一族でなければ知ることができないエピソードが元になっているから、日本近現代史の英語の資料としても貴重なものだと思う。松方正義の子供(正妻と妾の子供合わせて115女)や孫たちの足跡をまとめた最後の章も興味深い。息子たちの多くは半官半民、あるいは民間の会社を運営し、日本経済の基礎を作ったが、松方家の人々は自由民権運動と普通選挙が実施されたころにはほとんど政治の世界から手を引いている。軍にも直接関与していない。時代が進んで、欧米の大学へ留学した経験を生かして海外特派員などジャーナリストとして活躍した者も出ている。戦後アメリカの新聞社に雇われたハルもその一人だ。


松方正義の息子たち(ハルの伯父たち)の多くは留学や海外勤務で欧米での生活が長く、彼らは欧米文化に完全に順応した生活を送っていたようだ。欧米文化を楽しむだけでなくその紹介・普及にも力を入れていた。最も有名なものは、松方コレクションで知られる西洋美術の蒐集であろう。ボーイスカウトや登山などに熱心だった者もいた。彼らは日本の超エリート層を形成し、海外では国際通の穏健派と見なされていた。国内のエリートたちはもとより、欧米のエリートたちとの個人的な人脈も利用できる立場にあった。排日運動などアメリカの態度が硬化してきた1934年と、日米戦争が避けられそうもない気配になってきた1939二度にわたり、ハーバード大学時代にフランクリン・ルーズベルトと交友のあった松方乙彦はルーズベルト大統領に直接話をする努力をしている(もっとも、その努力はあまり歓迎されず、国務省による妨害もあったらしい)。


当時の上流社会、特に女性の間で、キリスト教の教会に通うのがファッショナブルだったらしいのもこの本を読んで初めて知った。それが当時キリスト教系の女学校が多数設立され、今日でも良家の子女が通う有名校になっている理由でもある。宣教師の下へ通った人々の第一の目的は英語の習得だったようだが、教会での集まりは、それまで日本にはなかった形の社交や社会奉仕の場所を提供していたようだ。驚いたことに、生糸の生産と輸出に中心的な役割を果たした新井家の群馬の親族たちは、使用人や従業員ともども全員キリスト教に改宗している。


戦争花嫁?

日本でもヨーロッパでも勝者となったアメリカの軍人の中には、現地の女性を戦争花嫁としてアメリカに連れて帰ったが少なくなかった。ウィキペディアによると、エドウィン・ライシャワーは戦時中、アメリカ陸軍の参謀部情報に少佐として入隊し、日本軍の暗号解読や心理戦などの対日情報戦で活躍し、1948年(昭和23年)には人文科学顧問団の一員として占領下の日本へ来ていたから、その可能性も皆無ではなかったが、そのときはそういうめぐり合わせにはならなかった。

ハルの祖父、松方正義は明治、大正、両天皇の信任が篤く、最後に公爵の爵位を与えられている。つまり、ハルの父親は7男だったから爵位を継ぐ地位にはなかったが、松方ハルは一応貴族のお姫様ということになる。そのお姫様が、エリート中のエリートとはいえ、なぜアメリカ人と結婚したのか。結論から先に言うと、松方ハルはアメリカ人として教育されたからというほかない。母方の祖父はアメリカに永住し、その娘、ミヨ(ハルの母)はアメリカ生まれのアメリカ育ち。松方正義の7男、正熊と結婚して日本で暮らしたが、日本社会になじむことができず、アメリカのクリスチャン・サイエンス教派の宣教活動に加わって、在日アメリカ人たちと親交を持った。子供たち(1男5女)には、日本の教育を受けさせることを拒否して、アメリカン・スクールに通わせ、アメリカ人やイギリス人の家庭教師を住み込みで雇っていた。宣教師の息子だったエドウィン・ライシャワーはそのアメリカン・スクールの先輩だった。もっとも、結婚は、占領終了4年後の1955年に偶然に再会してからのことで、挙式は1956年、ハルが40歳のときだった。ライシャワーは45歳で、先立たれた先妻との間に既にティーンエイジの3人の子供がいた。

ハルは次女だったが、戦時中に両親と共に日本にとどまっていたのはハルのみである。戦後、日本に戻って西町インターナショナル・スクールを設立した三女の種子を除いて、全員がアメリカ国籍を取得してアメリカに住んだ。この本の副題が A Japanese and American Heritage とあるように、松方ハルは自分が文化的な二重国籍であることを強く意識していた。というか、自分が日本人でもアメリカ人でもないことに少し引け目を感じていた。特に、普通の日本人としての教育を受けていなかったことを嘆いていた。この本の元になった祖父の書いた漢文の文書も読むことができなかったので、人を雇って通常の日本語文に翻訳してもらっていた。

男尊女卑

ハルはあのシナ事変の起きた1937年の夏にアメリカのプリンシピア大学というクリスチャン・サイエンス教派の大学を卒業して日本に戻っているが、日本の男との結婚は考えることができなかったと、次のように書いている。

My upbringing made me feel that I could never submit to what we would now call the blatant male chauvinism of Japanese husbands. (私の育ちや教育の結果として、今なら露骨な男尊女卑と呼ばれるであろう態度を示す日本の男を夫にして仕えることなど絶対にできないと思うようになっていた。)

ハルの母親ミヨが日本人社会に溶け込むことができなかったことはすでに述べたが、ミヨが日本人に対して抱いていた批判的な感情の元になった具体的な事象として挙げられているのは、親戚付き合いで母親たちの世間話が娘の嫁入り道具の話に終始したこと(社会一般のことにまったく関心がない)、夫も含めて周りの人間が、愛情の表現に乏しく、冷たいと感じた、さらには「空気のように無視された」と感じたことなどである。そういう母親の批判的な態度がハルに少なからぬ影響を及ぼしたことは疑いないが、それを元に男尊女卑というのは被害妄想の範囲であろう。同じことは、逆のケース、つまりアメリカ人の夫が日本人の妻に対して感じても不思議はない。この点に関しては個人差も大きく、アメリカ人でも「I  love you.」など歯の浮くようなことはいえない。第一そんなことを取り立てて言葉で表現しなければ愛情を感じ取ることができないようでは、話にならないと言う人も結構いる。男尊女卑ということで言えば、今日の日本とアメリカを比べれば、アメリカの方がひどいと思われることもあるから、当時も似たようなものであったと推察される。ハルが身近に見て比較できた日本とアメリカは、日本が武家/貴族の社会だったのに対しアメリカはクリスチャン・サイエンスの宣教師や付属大学の先生たちだったことを考慮に入れる必要がある。ちなみに、ハルの母親が参加していたクリスチャン・サイエンスは女性が始めた進歩的な新興宗教であった。クリスチャン・サイエンスは今では宗教よりは報道機関として名を挙げている。

明治以降、日本にはアメリカから多数の女性宣教師が派遣されてきていた。アメリカ女性宣教師の来日とその生活 - 金城学院大学(篠田靖子 著)から孫引きすると、明治中期の1年間(1889年)にアメリカが日本を含め海外に派遣した宣教師の総数は527名で,そのうち既婚男性が166名(ほぼ同数の夫人を含む),独身の男性宣教師が34名,独身の女性は171名であった(小檜山ルイ著の『アメリカ婦人宣教師』より)。つまり、夫人も含めると2/3が女性であった。その理由として、教職が高等教育を受けた女性の唯一の職業であったこと、多くは教会付属の小さな学校や私塾のような場所で教えていたが待遇は劣悪で不安定だったこと、婚期を逸した女性にとって宣教師は男性と同等の待遇が期待できる唯一の職業であったことなどが指摘されている。日本に来ていたアメリカ女性宣教師たちは宣教師というより元々は教育者であった。したがって、彼女らは宣教活動より学校を開くことに熱心だった(実際にキリスト教徒になった生徒は期待されたほどいなかった)。当時日本では、文明開化のためにエリート層は英語と欧米の生活様式を学ぶ必要があったが、欧米留学の準備として、あるいはその代わりとして、エリート層の子女たちは宣教師たちが教える英語塾や学校に通っていた。女性に特に人気があったのは、息子たちを海外に留学させても娘たちを留学させる家庭は少なかったからではないかと推察されるが、そういう日本側の需要とアメリカ側の教師の供給がたまたま一致したのであり、今日でも多くの英語圏の若者が日本で英語を教えているのは、その流れが継続されてきたことを示している。そういう流れの中で戦前に宣教師として来日していたアメリカ人女性を見れば、アメリカでは女性の権利や社会進出が実現していたように見えたのかもしれない。ハルはアメリカに比べて日本では女性の社会進出の機会がなく、個人的に英語を教えることぐらいしかできなかったと嘆いている。

祖父の松方卿が日本の上流社会の女性が赤十字などでの奉仕活動に参加することを奨励したことが誇り高く書かれているが、当時の中流の上から上のアメリカ社会でも女性の社会進出は慈善事業や教会を通した奉仕活動と教職以外にあまりなかったはずである。今でも、慈善事業や奉仕活動は社会経済的な富やステータスのシンボルである。また当時、高い教育を受けたアメリカの女性にとって教職がほとんど唯一の職業であったことは、日本では女性がお稽古事や塾の先生であったことに匹敵する。唯一の違いは、アメリカの女性参政権が1920年に実現していたことぐらいであろう。この参政権運動が宗教色の濃い運動だったことは、その余勢で禁酒法を制定したことからも明らかであるが、当時日本へ来ていたクリスチャン・サイエンスの宣教師たちも女性の社会への関与に高い関心があったことは想像に難くない。

欧米化

松方ハルの人生は、特殊な育ちの日本女性の例として読むこともできるが、祖父の時代に始まった「文明開化」の1つの帰結であり、松方家と新井家の歴史は、あの時代に、欧米社会に受け入れられ、対等に渡り合えるよう必死の努力を重ねてきた日本の超エリートたち、欧米の名門大学に留学するのが常識となっていたエリート層の息子や娘たち、さらにはその孫たちの欧米化の軌跡を示す例として読むこともできる。それは、敗戦の中途半端な反省による伝統の蔑視とアメリカ化(アメリカによる日本文化破壊工作もあった)の結果、軽薄な欧米追従の精神構造が大衆に浸透してしまった戦後の日本を先取りしていたと見ることもできる。それは、私が記憶している追いつけ追い越せの戦後日本でもある。日本人は欧米に追いつき追い越せるという確信を持ったとき、はじめて日本を見直す余裕ができたのであり、伝統文化の見直しや復活が始まったのもそのころであったように記憶している。

欧米の生活様式をエミュレートすることに忙しく、西洋かぶれしていたエリート層には、戦後のアメリカ化を属国化、洗脳と感じる素地はなかったのではないか。ハルはマッカーサーのいわゆる民主化政策をもろ手を挙げて歓迎している。先の戦争のきっかけとされた日本の満州支配を欧米が糾弾したことに対して、欧米が長年やってきたことと同じことをした日本を糾弾するとはという感想が書かれているが、白人文明の優越を信じて疑わなかった白人たちの日本に対する徹底した無知無関心に気が付いても、その裏に見え隠れしていた邪悪な意図、彼らの日本に対する帝国主義的な覇権と征服の意図を正面から見据えようとしていない。読者は、松方ハルの祖父たちが日本の独立を維持するためにあれだけ苦労したのにという感慨を松方ハルと共有することになるが、その先に思いは及ばない。

松方家の人々はGHQの行なった財閥解体と農地解放と公職追放と超インフレーションで富や地位の多くを失ったにも関わらず、そして民主化や報道の自由が表向きのスローガンでしかなかったことがわかった後も、事実が淡々と書かれているだけで、アメリカ/連合国の占領政策に対するハル自身の感想は自分自身に降りかかったことに限定されている。それが歴史的な考察に発展することはない。親しかった近衛家に戦後訪れた悲劇について、親交のあった松方家の人だから知ることのできたエピソードも書かれているが、あの軍事裁判に対する批判も、公職追放に対するコメントもない。ハルは、共産党員であろうとも投獄されていた政治犯がGHQによって釈放されたことはとにかくいいことだと喜び、エリート層には共産主義に傾いていた者も少なくなかったし、ハルの知人の中にも共産党に関係していた人々がいたことが書かれているのみである。

しかしジャーナリストとして仕事をしていたハルの前に立ちはだかった GHQ の言論統制については、怒りを隠そうとはしていないGHQ の言論統制は大本営の言論統制に取って代わっただけだったから日本の新聞社は GHQ の言論統制にも要領よく順応した。それは、あたかも占領軍が存在しないかのように日本のことを説明することであったとハルは述べている。そしてハルはその占領軍に小さな反撃を加える機会を逃さなかった。ハルは危険を承知の上で、日本国憲法がGHQによって書かれたものであることをハルがサポートしていたクリスチャン・サイエンス・モニターの新聞記者に教えたのである。それがアメリカでスクープとGHQその記者をブラックリストに載せて日本への再入国を阻止するという事態に発展した。ハル自信もブラックリストに載せられ、「松方家の恥」となったため占領が終了するまで、ジャーナリストの職から離れることを余儀なくされた
とはいえ、松方ハルにとって、日本を破滅に導いたのは、アメリカやチャイナが言いがかりをつけることができるようなことを行った、欲張りな軍部であり、アメリカ風のやり方やキリスト教は当たり前で望ましいものだった。しかし、輝かしい西洋文明の内包する邪悪な歴史について思いが及ぶことはなかったようだ。一方、日本文化についてはハル自身が認めるようにほとんど知らなかったから、愛着を持とうにも持ちようがなかったという風に読める。そして、それは多かれ少なかれ敗戦後の日本が受け入れた教育の先取りでもあった。

松方ハルは明治の日本をリードした自分の祖父たちに対してゆるぎない誇りを持っていた。この本を出版することによって日本の近現代史の貴重な記録を残し、戦後の難しい時期に駐日アメリカ大使の妻として日米親善にも貢献している。一方で、自分は日本人にもアメリカ人にもなれないという一種の劣等感が胸の奥深くに巣食っていたことも明らかにしている。敗戦後の教育は日本を知らない日本人を作り出してきたが、戦後70年、今日の日本人はそれをどのくらい自覚できているのだろうか。

ただ1つ救われる気がするのは戦前戦中を通して同盟通信の上海特派員として活躍し、戦後は民報新聞を発行していたハルの従弟松本重治の発言である。彼は日本政府がマッカーサーの命令に逐一従っているのを見て、その必要はないのにとコメントしたとある。3代目の松方家の人々は、既に欧米何するものぞという自信と気概を持っていたことが伺えるコメントではある。ちなみに松本重治はGHQの意に沿わない論説を民報に載せた結果、公職追放になっている。

それにつけても、戦後日本の復活と繁栄を支えた民間人の活躍に比較して、日本の政治や外交さらには報道機関があの占領下の傀儡政権のままのように見えるという落差の原因はいったい何なのだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿