2017/12/13

もう男には任せておけない

ウーマンズ・マーチと「まとも人間」の共闘による政権奪回

トランプ大統領の就任式の翌日、米国議会の前に広がる公園と道路は、雨がちでまばらだった就任式の人出に比べて、桁違いの人出で埋まった。ウーマンズ・マーチに集まった人々だ。ウーマンズ・マーチの主役はもちろん女性だった。首都ワシントンだけではなかった。アメリカ中の大小の街々でマーチが行われた。それは、アメリカ初の女性大統領の就任を祝うはずだった場所で、女性蔑視の蛮行を自慢げに話し、口からでまかせの嘘を恥じることのない男が大統領に就任したことに対する義憤、投票数では3百万票の差で勝ったヒラリー・クリントンが大統領になれなかった仕組みに対する義憤を、トランプと共和党の差別・格差拡大政策を阻止し打倒するエネルギーに転換することを確認する、トランプへの宣戦布告の集会であった。


戦いはトランプが大統領に当選したとわかった直後から準備され、さまざまの草の根運動が名のりをあげた。「Indivisible Guide」(分断拒否ガイド)は一週間でまとめられ、瞬く間に全米に「indivisible」に賛同する草の根グループが結成された。賛同グループが6000以上できているそうだ。「indivisible」が標語になったのは、トランプと共和党がアメリカを二分するような差別アジェンダを前面に押し出してきたことを分断統治として捕えているからである。ちなみにindivisibleはアメリカの「The Pledge of Allegiance (忠誠の宣言)」の中に出てくるお馴染みの単語で、小学校から朝礼でこの宣言を暗証させられる。
The Pledge of Allegiance (忠誠の宣言)
I pledge allegiance to the flag of the United States of America and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all. (私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する共和制、神の下の統一国家、分割すべからざる、万民のための自由と正義の国に忠誠を誓います)背景の詳細は、ウィキペディアの「忠誠の誓い」を参照。

分断統治が日常生活に落とす影は、家族や親戚、友人たちが集まる独立記念日や感謝祭、クリスマスなどの祝祭日に顕著に現れる。ペテン師トランプの口車に乗せられて投票した連中がアメリカの民主主義を破壊し、威信も名誉も信用も地に落としたと考える反トランプ派は、トランプ支持者と口を利くのを拒否したりするのは序の口で、親子の縁を切ったり、離婚を宣言したりした例もあるとか。アメリカ心理学協会では毎年アメリカ人の感じているストレスの度合いを調査しているが、2017年はアメリカ史上最悪の年だという人が多かったとか(APA Stress in America™ Survey: US at 'Lowest Point We Can Remember')。

トランプの乱暴な言動やハッタリは開発途上国の独裁者のイメージに重なる。こわもてが売りのニューヨークの不動産業界では通用するスタイルなのかもしれないが、洗練された知的なステーツマンのイメージこそが世界に君臨する民主主義と人権尊重の国アメリカにふさわしいと思っている人々には、トランプ大統領の出現は、恥ずかしく思っていたお里が知れてしまったように感じられると言ってもいいかもしれない。

トランプ政権が最初に挑んできた戦いは EPA(環境保護庁)や国立公園サービスを始めとする各省や研究機関の科学者たちに対する口封じ(広報の停止)であった。それまでに蓄積されてきた科学的研究と調査の資料がデーターベースから削除されることを懸念した科学者たちは安全なところにデータをコピーしたという話だ。削除されたウェブサイトやツイッターのアカウントに代わるアカウントをひそかに作って口封じに抵抗する科学者も出てきた。口封じのやり方が余りにもジョージ・オゥエルの『1984年』に描かれた暗黒の世界やナチスドイツの警察国家に似ていたので、ナチスドイツの時代にヒットラーに抵抗して強制収容所に入れられていたMartin Niemöller (1892–1984) という牧師の有名な言葉「First they came for the Socialists, and I did not speak out...」(まず、社会主義者がやられたが、私は抗議をしなかった。。。)をもじった「First they came for the scientists 」(まず、科学者がやられた)が盛んに引用され、みんな兜の緒を引き締めた。国立公園サービスの科学者が口を封じられた理由は、トランプの就任式の人出と8年前のオバマの就任式の人出を比較できるように同じ視点から取った議事堂前の公園の写真を公開したからだと言われている。2017年12月現在で、環境保護庁の科学者や調査官合わせて700人以上が辞職したということである。トランプ/共和党の政権がこのまま続けば、環境保護庁も国務省も消費者保護庁も労働省も形骸化し、小さな政府が実現することは間違いない。

次の戦いは入国禁止令だった。既にビザを取得して飛行機に乗っていた7つのイスラム国からの入国を拒否して入国管理事務所に足止めするという法治国家としては考えられない蛮行を実行しようとしたのだ。オバマ政権下で発行されたビザは認められない、甘い基準で発行されたに違い、新しいビザ発行までに時間が必要という理由である。法治国家の要である裁判所はこの入国禁止令を無効だと判断したから、トランプは裁判官たちに当たり散らした。

次は健康保険制度、オバマケアを巡る戦いになった。共和党が多数を占める下院では、過去7年間に渡って、毎月のようにオバマケア撤廃を決議してきたから、「Resist(抵抗)」を合い言葉に各地で様々の草の根プロテスト(地元議員をターゲットにしたタウンホール・ミーティング、座り込み、デモなど)が行われた。結局、それが実際に撤廃されるとなったらしり込みする共和党議員が少なくなく、オバマケアを撤廃してその前の状態に戻すことをもくろむ共和党の法案は可決されなかった。しかし、無加入者に対する罰金の徴収を停止するという大統領令を止めることはできなかった。結局、共和党は税制改革に付帯させて、罰金の徴収を停止する法律を通した。これは表向き選択の自由を保障すると宣伝されているが、個人健康保険の加入者が減って保険料が上がる効果があり、保険料が上がるとさらに加入者が減るという悪循環に陥る可能性が高い(この法律が可決されたあと、トランプはこれでオバマケアは実質撤廃されたと、公約を果たしたことを宣言した)。オバマケアにはこのような悪循環を止める仕掛けがなく、毎年インフレ率をはるかに超える5~30%の保険料の値上げも、高年齢になると幾何級数的に上昇する保険料も保険会社の言うままに認めている。しかも、自由競争で保険料を抑えるはずだったのが、裏で談合でもやっているのか、オバマケアに参入する保険会社がどんどん減って、1社しかないという州も多い。2017年の報告では、健康保険会社はほくほくだそうだ。

トランプ政権は既に低所得者に対する補助金の一部を保険会社に支払うことを停止したほか、加入更新期間が短縮されただけでなく、日曜日には加入サイトが12時間閉じられ、加入手続きの案内や補助が大幅に縮小されている。補助金の対象となる中低所得者層の保険料自己負担分は、最大(4人家族で年収約10万ドルまでが対象)で収入の9.5%まで(最低は2%)で、それを超える分の保険料は所得税の一部として支払ったことにできる仕組みだから、加入者が減れば、それだけ政府の税収が増え、大金持ちや大会社に対する減税がやりやすくなるという計算である。オバマケアをさんざんけなして、それより安くて充実した健康保険が買えるようにすると公約したトランプの真意はどこにあったのか。結局オバマケアの破壊が目的で、それに代わる制度を作るつもりは毛頭なかったと結論するほかない。トランプが得意とするBait and Switch(おとり広告)である。

反トランプ陣営、特に女性が勝利を収めた戦いは、セクハラの告発と糾弾であった。FoxNews の人気トークショーホスト、ビル・オライリーが血祭りに上げられた。FoxNews はトランプの支持者が好んで見るニュースチャンネルであり、2016年の8月にセクハラで解雇されたトップのロジャー・エイルズに続くFoxNewsの大物の解雇であった。二人とも共和党の支持者で、トランプの古くからの友人であった。セクハラの告発には、慰謝料を払って被害者を沈黙させ、もみ消してきた FoxNews だったが、口止め料などに興味はない、ビル・オライリーとFoxNews をこのまま野放しにしておけないという女性たちとセクハラ専門の気鋭女性弁護士の攻撃をかわしきれず、FoxNews のオーナーのマードク父子はイエロージャーナリズムで売ってきた自社のイメージアップを目指してきたから、ロジャー・エイルズに続いてビル・オライリーの首も切った。秋になって左派のタレントや議員もセクハラで告発されるという流れに発展し、今や何十年も昔から蓄積されてきたセクハラやわいせつ・迷惑行為の告発が堰を切ってあふれ出したかと思われる有様である。タイム誌が年末に出す「今年の人」に「Silence Breakers」(沈黙を破った人たち) としてセクハラを告発した女性たちが選出された。



春から夏に掛けて行われた、上院と下院の欠員を埋めるための特別選挙では、期待された民主党による議席の獲得は実現せず、以前共和党の議員を選出した選挙区では共和党がすべて議席を保持した。トランプの支持率は始めから低かったが、トランプに投票した人々の間では9月現在、20%前後が反トランプになっているとはいえ、相変わらずトランプ/共和党支持は堅牢に見えた。民主党と共和党の対立が、人種、収入、学歴、性別、年齢、宗教などを軸として米国を二分するようになって久しいが、有権者のほぼ1/3を占める共和党の固定支持層は、よっぽどのことがなければ、支持を変更しないように見える。

バージニア州の州議員選挙に結実した女性の草の根運動

11月6日の地方選挙で、あのウーマンズ・マーチのエネルギーが一時的なものではなかったことがようやくはっきりしてきた。民主党の草の根運動が有効であったこと、地方、つまり、市町村や州レベルの選挙で勝つことから始めるという戦術が有効であることを誰もが実感した。何よりも明らかになったことは、その主役が女性であったことである。議席を失った共和党の候補と彼らから議席を奪った初当選の民主党議員を比べれば一目瞭然である。11月6日のバージニア州地方選挙で共和党から議席を奪った民主党政治家の大多数(当確15人中11人)が選挙に出たのは初めてという女性たちである。

THE RACHEL MADDOW SHOW: Democratic wave brings new faces into politicsより

象徴的だったのは、ニュージャージー州の地方選挙だった。共和党の John Carman という郡レベルの行政官(ニュージャージー州独特の制度で、このレベルの役人も選挙で決めるとのこと)が、ウーマンズ・マーチの日に Facebook に投稿したコメント「Will the women's protest be over in time for them to cook dinner?」(女性のプロテストは女たちが晩御飯を作るのに間に合う時刻に終わるのか)に腹を立てて、対抗馬として民主党から出た黒人女性、Ashley Bennett が選挙に勝ったのである。

地方選挙での民主党の勝利は、草の根運動が先導したもので、民主党が党として先導したものではなかった。地方選挙では議席の半数しか民主党候補を立てていなかった州も多い。全米50州のうち10州の民主党がワシントンポストの瀕死リストに載った。労働組合が弱体化した結果であり、民主党がブルーカラー層の支持を失った原因でもある。オクラホマ州も瀕死リストに載った州のひとつであるが、それを見かねた24歳の女性党員が民主党支部を乗っ取った(支部長に選ばれた)。史上最年少の支部長であるが、党の立て直しを推進して、今のところ2017年の州議会議員欠員補充特別選挙では7戦6勝である。古い体質の民主党ではどうにもならないと草莽が、特に女性が立ち上がったのである。

A Guide to Progressive Grassroots Organizations というページに今活躍している10の主な草の根ブランドが紹介されているが、そのほとんどがトランプ当選後にできたものである。いずれも、インターネットを活用して、全米各地の選挙区ごとにボランティア活動家と候補者を育てる戦術を展開している。共和党から議席を奪うチャンスがある選挙には、全米から活動家と資金を投入する体制も整えている。国政選挙だけに注目するのではなく、市町村レベルから丁寧に候補者を育てて戦い、まず州議会を民主党の手に奪回する必要があるというのが共通の認識である。10年ごとの国勢調査の結果を受けて選挙区の線を引きなおすのも、選挙や選挙人登録の手続きを決めるのも州だからだ。過去十数年に渡って、共和党は着々と自党に都合のいいように線引きと手続きを変更してきた。裁判沙汰にもなっているが (線引き裁判の例はこちら)、その効果は明らかで、今回のバージニア州の地方選挙でも、投票数で共和党を10%以上引き離した民主党が、議席数では過半数を取れるかどうかまだはっきりしていない(4議席がリカウント中)。

アメリカの女性が立ち上がった歴史は古い。1839年に、既婚女性の独立した財産所有権を認める法律がミシシッピー州で制定されたのに触発されて、同様の法律を制定する州が増え、1900年までにはすべての州で既婚女性の財産所有権を認める法律が制定された。女性参政権も1920年までには、国レベルで憲法改正条項として成立し、禁酒法まで制定された。

このとき禁酒法が制定された背景には、女性差別撤廃運動はアメリカ北東部のプロテスタント系の奴隷廃止運動にさかのぼることのできる運動であり、勤勉・禁欲的なプロテスタントの戒律と相容れないカトリック系(アイルランド系、南欧系)の移民が増えたことに対する不快感から、社会の乱れ、特に男の横暴と自堕落の原因として飲酒が槍玉にあげられたという社会宗教的背景と、工業化が浸透した結果、危険な機械や道具を扱う工場では、機械装置に合わせて規律正しく働く、しらふの労働者が必要とされていたという仕事場の変化という背景もあった。禁酒運動は男の横暴を苦々しく思っていた女性を女性主導の政治運動に巻き込むことに大いに貢献した。今日それに匹敵するのが女性蔑視とその顕示であるセクハラや迷惑行為の告発糾弾である。


1848年にニューヨーク州セネカホール市での集会で書かれた The Declaration of Sentiments(所感の宣言) という女性差別撤廃運動の宣言文を読むと、当時、法的には妻はすべての権利を否定された奴隷あるいは死人と同じような存在だったことがわかる。実は、女性差別撤廃運動の活動家たちは奴隷開放運動の活動家でもあった。

女性差別撤廃運動でも奴隷解放運動でも、財産所有権と参政権の獲得は第一歩でしかなかった。それで差別がなくなる訳ではない。第二次大戦中は、戦争に駆り出された男たちに代わって、あらゆる分野で女性が活躍せざるをえなかったから、女性たちは自分たちの能力に一層自信をもち、職業差別に敏感になった。戦後になって、黒人の差別撤廃運動や公民権運動と並行して、女性差別撤廃運動、いわゆるフェミニスト運動が広がっていった。しかし、2017年現在でも、同じ職場で同じ仕事をしていても女性の賃金は低いという形で差別は根強く残っている。女というだけで軽く見られたり、痴漢やセクハラ、あげくにはレイプにいたるまで、男に不快な体験を強いられたことのない女性はまれであろう。

今、このような女性の被差別感は、黒人やヒスパニック、イスラム教徒、LGBTQその他のマイノリティの被差別感と同等かそれ以上の共感を得ている。なにせ、人口の半分が女性なのだから。大統領選挙中の女性蔑視の言動やセクハラを告発した女性の数、白人男性至上主義をあおる言動などから、トランプ大統領はアメリカ社会における差別の象徴と捕らえられ、女性蔑視に対する反発が打倒トランプ運動の強力なエンジンの一つとなっている。そして、このエンジンが長年共和党が独占してきたアラバマ州の上院議員選で民主党が勝つという歴史的な逆転劇の牽引力となった。

白人を主体とする共和党に比べて、民主党は白、黒、茶、黄、その他のマイノリティを積極的に受け入れてきたから、レインボー連合(Rainbow coalition)と呼ばれてきたが、ここへ来て、「まとも人間」の連合(coalition of the decent)と呼ぶ人が出てきた。差別や蔑視や白人至上主義をあおり、自分に都合の悪いことはすべてフェイクニュースと呼んで片付ける共和党/トランプは、まともな尊敬できる人間じゃないという気持ちが込められている。

2017/08/17

歴史修正主義の流行?

歴史修正主義者というレッテルが無条件にネガティブなレッテルとして通用した時代は終わったようだ。『戦争を始めるのは誰か 歴史修正主義の真実』 (文春新書) | 渡辺 惣樹著の商品説明には、
本来の「歴史修正主義」とは、戦前の日独を全面肯定する歴史観のことではありません。米英の外交に過ちはなかったのか、あったとすれば何が問題だったのか、それを真摯に探る歴史観のことです。
とある。渡辺 惣樹は『Freedom Betrayed』 という本(アメリカを戦争に引き込んだフランクリン・ルーズベルト大統領を糾弾したフーバー大統領の回顧録)の翻訳者である(Freedom Betrayedを読んでを参照)。フーバー大統領のこの本も、ハミルトン・フィッシュの『ルーズベルトの開戦責任』も共和党の政治家が政敵の民主党の大統領の嘘(世論操作)と開戦責任を糾弾し、プロパガンダ=捏造された歴史が隠していた史実を明らかにしたものである。日米戦争の火蓋を切った真珠湾攻撃の前に米軍が入手していた情報を明らかにしたロバート・スティネット(ジャーナリスト、元海軍:太平洋戦線)の『真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々』もフランクリン・ルーズベルト大統領の嘘を暴いた本であるが、スティネットはあの戦争への参戦自体は必要だったという意見だ(Robert Stinnett の話も参照)。インターネットを検索すると、これらの情報を伝えるYouTube番組やページがたくさん出てくるが、主要メディアのテレビやラジオや新聞にはめったに出てこない。

言うまでもなく 、歴史学は新たに発掘された資料に基づいて歴史を修正するという作業無しには成り立たない学問である。しかし、いったん確立された歴史観とそれによって支えられている体制を維持しようとする勢力は、「歴史修正主義者」を体制にたて突く不穏分子という意味で使用してきた。これは、何も新しいことではなく、昔から、宗教を基盤とした体制で「異端者」が迫害・糾弾されてきたのと少しも違わない。

ヨーロッパ諸国では第二次世界大戦中にナチス・ドイツがユダヤ人に対して大量殺戮(ホロコースト)を行ったかどうかについて疑念を挟むようなことを公の場で発言すると犯罪になる。最長5年の懲役刑も付く。AskHistorians というサイトに次のような説明がある。
As far as the legal situation goes, at this point in time 16 countries outlawed Holocaust/genocide denial explicitly or implicitly (Austria, Belgium, Czech Republic, France, Germany, Hungary, Israel, Liechtenstein, Lithuania, Luxembourg, Netherlands, Poland, Portugal, Romania, Slovakia, and Switzerland). Some of them like Austria or France do it explicitly in laws passed for this purpose, other do it implicitly by interpreting existing laws against hate speech, group libel, incitement to racial hatred or acts of racial or xenophobic nature in a way that outlaws Holocaust denial.
(法律で、ホロコースト/ジェノサイドがあったことをあからさまにあるいは暗黙に否定することを違法とする国が16カ国(オーストリア、ベルギー、チェコ共和国、フランス、ドイツ、ハンガリー、イスラエル、リヒテンシュタイン、リトアニア、ルクセンブルグ、オランダ、ポーランド、ポルトガル、ルーマニア、スロバキア、スイス) ある。オーストリアやフランスのようにこのための法律を制定して明文化している国もあるが、ヘイト・スピーチや特定グループに対する誹謗中傷、つまり、人種ヘイトや人種差別的あるいは異国人恐怖症的な行為を煽ることを規制する既存の法律の解釈によって暗黙に行っている国もある。)

ヨーロッパ諸国で犯罪として罰せられるのは、主に「ホロコースト否定」らしいが、それを歴史修正主義と呼ぶことによって、あたかも、ニュールンベルク裁判と東京裁判で確立された第二次世界大戦史観の一部でも否定すれば犯罪になるかのように扱って、言論弾圧を行おうとする勢力があることが問題なのである。計画的なユダヤ人大量殺戮(ホロコースト)という史実(誇張や捏造を含むという人も少なくないが)を否定することが犯罪なら、南京大虐殺や性奴隷、日本の世界征服の野望、真珠湾での「奇襲」攻撃などがプロパガンダでしかなかったと言って否定することも犯罪でなければならないというわけだ。

数年前にフランスのアングレームで開かれた国際漫画祭で、日本軍と慰安婦の関係を描写した日本の漫画が、政治的(歴史修正主義)のレッテルを貼られて、フランスの主催者に妨害された事件は、フランスにおける「歴史修正主義」というレッテル貼りの威力をうかがわせる事件となった(この記事を参照)。自虐史観を押し付けようとする内外の勢力と長年戦ってきた多くの日本人は、あの事件で、世界がいかにあのニュールンベルク裁判と東京裁判で確立された第二次世界大戦史観にがんじがらめにされているかを垣間見たに過ぎない。

日本でもそうこうしているうちに「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」なる一種のヘイトスピーチ法が2016年に成立した。どうやら外国人はいくら日本人に「不当な差別的言動」を行っても構わないということらしい。幸い努力目標で罰則はないが、誰かが「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」、「本邦外出身者を著く侮蔑する言動」、「本邦外出身者を地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動」と決め付ければ、公の場での外国人に関する批判的言動をヘイトスピーチとして排除することを正当化できる法律である。

面白いことに、東京裁判史観を利用して日本の頭を押さえつけ支配してきたアメリカは政治献金の規制さえ「言論の自由」を妨害するといって実質上廃止した国だから、ホロコースト否定や人種差別ぐらいで言論の自由を法的に抑圧するようなことはしていない(ただし、差別に基づく犯罪はそうでない犯罪とは区別され刑罰も重い)。とはいえ、そのアメリカでも、歴史修正主義者、Revisionist は体制にたて突く不穏分子という意味で使用されてきたことには変わりはない。


明治維新以来の日本の台頭を快く思わず、日本の頭を押さえつけようとしてきた勢力は、日本の慰安婦制度や南京事件、大東亜戦争をナチスのホロコーストに匹敵する犯罪に仕立て上げ、あわよくば、それを否定する勢力を歴史修正主義者=ホロコースト否定者と呼んで犯罪者扱いしようとたくらんできた。連合国が寄ってたかって日本に戦争犯罪者のレッテルを貼るために演出した極東軍事裁判は、ナチスのホロコーストを裁くために行われたニュールンベルク裁判と瓜二つになるように仕組まれた(日本はなぜ侵略史観・自虐史観を押し付けられたのかを参照)。

連合国(米、英連合、仏、ソ連、中共)に都合のよいように、日本とドイツを残忍で破廉恥な民族だと一つに束ねて非難し、頭を押さえつけることができるように、日本の自衛戦争であった大東亜戦争をホロコースト裁判の型に押し込め、「人類に対する犯罪」、「平和に対する犯罪」というでたらめな事後法の適用だけでは物足らず、ありもしない南京虐殺まで捏造した(南京事件は4度あったを参照)。多くの日本人の長年の努力にも関わらず、世界一般は言うに及ばず、日本人さえその東京裁判史観の呪縛からいまだに解かれていない。

ところが、最近欧米でも歴史修正主義を堂々と標榜する人々が出てきている。というか、世界の歴史は偏見とプロパガンダと捏造、善意に取れば見過ごし、思い違い、勘違いなどによって書かれている部分が多すぎると感じている人が増えている。

世界的に有名なジャーナリスト、Malcolm Gladwell (マルコム・グラッドウェル) はその名もズバリ、REVISIONIST HISTORY(修正主義者の歴史)というラジオ(ポッドキャスト)番組を作っている。2015年に始まったこの番組のエピソードの一つに、トヨタ自動車の「制御不能な加速」による事故にまつわるプロパガンダと集団ヒステリーとそれに迎合した政府当局やメディアについて分析したBlame Gameがある。アメリカにも、アメリカの政府当局とメディアが寄ってたかってトヨタを叩き、多額の賠償金を払わせたのは不当であり、アメリカの恥だと思っている人が少なからずいるのである。マルコム・グラッドウェルのように史実と科学的分析と正義を重視する人々の心は重い。

さらに言えば、自分の正当性を最大限に主張し、法廷で最後まで争うことによってしか正義を実現できないと信じている欧米人の目から見れば、簡単に折れて謝罪する日本企業や政府はそのシステムをないがしろにしている共犯者に見えてくるのである。

ついでに言っておくと、でたらめと嘘を平気で言い散らかして大衆を煽り、反エリート主義に迎合して科学を敵視し、気炎をあげているトランプ大統領をアメリカの恥だと思っているのはこういうタイプのアメリカ人なのである。(マルコム・グラッドウェルはイギリス生まれのカナダ育ちで、在米だがカナダ国籍だから、正確にはアメリカ人ではないが。。。)

Image result for henry scott stokesイギリス生まれの歴史修正主義者といえば、ジャーナリストのヘンリー・ストークス(Henry Scott Stokes)を挙げなければならない。2013年出版の『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』(英語版はFallacies in the Allied Nations' Historical Perception as Observed by a British Journalist)は南京虐殺が、蒋介石と欧米のジャーナリストや宣教師が共謀して打ったプロパガンダであることを示す史実を説明した本である。この本を書いた背景には、第一次大戦以降、大きな顔をするようになったアメリカ人に対するイギリス人の不愉快な思いがあることも隠さない。

Joshua Blakeney at the National Diet Library
若い世代では同じくイギリス生まれで、カナダ在住、『Japan Bites Back: Documents Contextualizing Pearl Harbor』(日本の反撃:真珠湾攻撃の文脈を示す文書群)を書いたジョシュア・ブレイクニー(Joshua Blakeney)がいる。この問題に頭を突っ込むようになったきっかけは、大学院での研究テーマに9.11陰謀論を取り上げたことに始まるという。それがユダヤ人/シオニストの知るところとなり、若い研究者にそんな研究をやらせるとはけしからん、税金の無駄遣いだ、と大学に圧力をかけてきたユダヤ人がいたのだそうだ(Japan Bites Back: Allied Demonization of the Empire of Japan.(日本の反撃:連合国に悪魔扱いされた日本帝国)を参照)

9.11のあと、イスラム教徒、特にイランが「悪魔」扱いされるようになり、イランはナチスドイツに比較されたりした。イランはイスラエルを潰すために核兵器を開発しているから制裁しろという議論が盛んに報道されるようになったのを覚えている人もいるだろう。ジョシュア・ブレイクニーは、9.11の報道の嘘を学んで、他にどんな嘘を信じさせられていたかを考えるようになった。たまたま日本語を学んでいたので、日本についての歴史修正主義を調べると、戦前戦中の欧米メディアでの日本の扱いが現在のイラン/イスラム教徒の扱いに奇妙に似ていることに気が付き、さらに調べると、そのような情報の出所がユダヤ系メディアやジャーナリストであることがわかったのだとか。

当時日本人はユダヤ人をその他の英米人から区別していなかったが、反日プロパガンダで活躍したユダヤ人は枚挙に暇がないほどいる。当初、共産主義革命の主導者たちはユダヤ人だったから、ユダヤ人は共産主義のソ連を親ユダヤと考えていた。だから、反共の日本は敵であった。こう書くと、何だ、ユダヤ陰謀論者かと思う人もいるかもしれないが、反日偏向記事で知られる日本発の英字新聞、The Japan Timesの前身は、戦前、Wilfrid Fleisher というユダヤ人が出していた The Japan Advertiserである。同じような連中(CIA、日本の共産主義者、シオニスト)が戦後すぐに日本発の英字新聞を再開して反日記事を世界に発信してきたことを見逃してはいけない。

というわけで、ジョシュア・ブレイクニーは、日米開戦前に日本の立場を擁護し説明するために出版されていた英字出版物を調べていくうちに、Contemporary Japan: A Review of Far Eastern Affairs とThe Foreign Affairs Association of Japanという日本人による2つの定期刊行物に行き当たり、その中の主要な論文を8つ復元したのが『Japan Bites Back: Documents Contextualizing Pearl Harbor』である。この「Bite Back」は「窮鼠猫を噛む」の意味で使われている。もちろん、真珠湾攻撃のことである。つまり、この本は、真珠湾攻撃は日本の「世界征服」戦略の一環だったのではなく、日本の反撃だったことを明らかにする目的で書かれた本である。

当時、アメリカにはRalph Townsend (ラルフ・タウンゼント)を始めとして、親日の記事や本、パンフレットを書いたために、スパイ扱いされて投獄された人々が何人もいたことも多くの日本人は知らないのではないだろうか(Ralph Townsendの本を紹介する英語のこのページを参照)。ジョシュア・ブレイクニーは、大川周明の大アジア主義、大東亜共栄圏について調べ、21世紀のRalph Townsendとして、日本の代弁者となることを目指しているらしいが、今のところ、英米の主要メディアには相手にされていないらしい。

ちなみに、ジョシュア・ブレイクニーはカール・マルクスの「Religion is the opium of the masses(宗教は大衆のアヘンだ)」をもじって「holocaustianity (ホロコースト教)は大衆のアヘンだ」と、ホロコーストを隠れ蓑にしたユダヤ人の「世界征服」戦略=New World Order (新世界秩序)戦略を糾弾している。

2017/07/30

国破れて、女たちの出番

国が破れたら、生き残った男たちは奴隷化され、女たちは侵略者に犯され、奴隷化されて、好むと好まざるとに関わらず侵略者の子供を生まされるというのが古来からの習わしだったらしい。大東亜戦争で日本が英米の率いる連合国に負けたときも、女たちは強姦を恐れ、沖縄では米兵の侵攻を目前にして、樺太ではソ連軍の侵攻を目前にして自決した女たちさえいた。このような女性の運命は下々の一般の女性に限られたことではない。国の中枢で、妃や姫などとよばれるような地位にある女性の運命も似たようなものである。戦国時代の武将たちは妻や子供たちを人質に差し出したり、娘を政略結婚に差し出したりした。負け戦が確実になったとき、夫と一緒に自決した者もいた。ヒットラーは敗戦が確実になった時、夫人のエヴァ・ブラウンと共に自決した。

このように書くと、女たちは自分を守るすべを持たない弱者であり、運命に弄ばれる犠牲者でしかないように聞こえる。たしかに昨日まで敵だった男たちに強姦されたり性奴隷のように扱われ、望まない子供を生まされたりした女性たちの運命は、戦って殺されたり、捕われて拷問されたり、過酷な労働を強要されたりした兵士同様に悲惨というほかないが、国が破れて侵略者と向き合わなければならなくなった女性たちの中には、別の覚悟、今度は女の出番だという覚悟を決めた人もいたのではないだろうか。籠絡とか、ハニートラップとか、懐柔とか。

なぜこんな話を取り上げるのかと言えば、敗戦後の占領下の日本について色々読んでいて、米軍の高級将校たちの「お相手をした」上流社会の女性たちがいたという話に出くわしたからである。しかもそれは、「意図的」に行われたらしいのである。

一番有名なのは鳥尾子爵夫人、鶴代であろう。この人の場合は自分で本を書いているから、単なる噂ではなかった。キサラギジュンの「GHQの女」を抜粋引用させてもらうと、
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□鳥尾夫人
下條鶴代は女子学習院初等科に入学した。鳥尾光敬(みつのり)と結婚して子爵夫人となった。一九三三年九月四日生まれの息子、敬孝(のりたか)を女子学習院幼稚園、学習院初等科、小金井ご学問所へ通わせている。敬孝は皇太子の継の宮(今上天皇)と同級のご学友となった。。。

戦争が終結すると今まで不倶戴天の敵だった米軍高級幹部を接待するのが政府の主な仕事となった。ある日、オニガワラのような顔のナラハシ・ワタル内閣書記官長(のちの官房長官、在職一九四六年一月一三日~一九四六年五月二二日)が総理官邸でパーティが開かれた。官邸には大きな食堂やシャンデリアがあり,五人の陸軍の将校と四、五人の海軍将校を呼んで接待したのだ。GHQ民政部のケーディス大佐やラウレル中佐、ハッシィー中佐などが集まった。オニガワラが眼をつけた鳥尾鶴代子爵夫人や、鍋島しげ子(鍋島子爵夫人)、太田芳子夫人(元横浜正金銀行ニューヨーク支店長の妻)らが官邸に呼ばれた。その後数日して新橋第一ホテルでお返しのデイナーダンス会が開かれ、鳥尾夫人はケーディスと結ばれた。幣原内閣はその後も三人を呼んで大磯滄浪閣 (一時、西武プリンスホテル別館)などでバーべキュ―・パーティをしている。
。。。
オニガワラことナラハシ・ワタルは幣原内閣の下、憲法調査会(松本蒸治国務相・委員長)とGHQの間を駆けずりまわっていた。政府原案は毎日にスクープされ、マッカーサーの逆鱗に触れ、マッカーサー原案が準備されようとしていたさなかである。
宴会の設定は急務であり、御婦人方の調達も急務だった。総理府官邸のパーティのホストナラハシ夫人や松本国務相、白州次郎外相秘書官、福島真太郎首相秘書官、元神奈川県知事夫人、元東京帝大教授荒木光太郎、光子夫妻、そのほかの実業家や華族の令嬢や夫人たち、国家総動員体制だったのだ。。。

。。。日本の憲法が変わる。
―その出発点は四五年一〇月四日、マッカーサーが東久邇内閣の副首相格の近衛文麿元首相に憲法改正を即し、翌日には内閣総辞職され、かわって組閣した幣原内閣の松本蒸治国務相が憲法問題調査委員会が編成した草案を「明治憲法と変わるところがない」と拒否し、自前の草案を作ろうとフィリピンからホイットニーを呼び寄せたところから始まる。四五年末にはホイットニーが東京に来てGS局長に納まる。ホイットニーはケーディスを巧みに活用して「国体変革ー象徴天皇」、「戦争放棄」、「人権尊重―主権在民、基本的人権、婦人参政権」を憲法に表現する草案作りを急いだ。ケーディスたちは四六年二月二日からたった一〇日間でマッカーサー草案を完成させた。二月一二日がデッドラインだった。その日はマッカーサーが指定した。マッカーサーは例の通り、「リンカーンの誕生日までにあげろ」だった(増田三四八p)。
ワシントンで開かれているFECをはじめ、アメリカ、ソ連、オーストラリアの世論は「天皇処刑論」だったが、マッカーサーはどこの意見も聞かず、「天皇制存置論」を展開したのだ。
マッカーサーが憲法の制定を急いだのは、一九四五年の一二月にイギリス、ソヴィエト、アメリカの外相会議で極東委員会(FEC)の設置が決まったからだ。十三カ国(米国・英国・中国・ソ連・フランス・インド・オランダ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・フィリピン、一九四九年一一月からビルマ・パキスタンが加わる)の代表から構成されるこの委員会が、一九四六年二月二六日以降、活動を開始した後は、憲法改正に対するGHQの権限が制限されることになっていたので憲法制定を急いだ。つまり、同じ戦勝国だけれど共産主義圏のソビエトが口を出してくる前に自分の手で憲法を作り上げてしまおうということだった。
ホイットニーは元帥の意図を忠実に推進した。ホイットニーの部下、ケーディスにはこの方針に従って草案を作らねばならない。天皇を政治には参加させないが、国民統合の象徴として位置付ける。「イギリス王朝と市民との関係」のような立場が最終目標である。

『鳥尾夫人は言った。「私は素直に天皇制はそのまま残したいと思う。ただし今までのように神の如き特別扱いは絶対にしないこと、英国のキングやクイーンのように、もっとっもっと一般市民ともおだやかに接し、生活なども或る程度同じにして理解し合えるようにし、天皇は絶対的で、それを誰かが利用したら大変なことになるような存在ではなく、人間天皇の御一家で残したい」
この時期、もし天皇が戦犯に成ったり、天皇制がなくなったりしたら、われわれ国民はよりどころを失い、本当の敗戦国になってしまうような気がしたのだ。あるいは私の育った環境がそういわせたのかもしれない。このような会話があって、なお、二、三日たった或る日、私達は午後の一刻(ひととき)を世田谷の庭で、子供達と共に過ごしていたが、ケーディスは、「会議があるから帰る。今日が最後の会議で今は或る国の代表が、すごく天皇制維持に反対している。それに同調するものも出てくるかもしれない。もう一度聞くが、ツーチャンは天皇制維持に賛成なんだね、残したいのだね」と優しい顔をしてたずねた。私は思わず「お願い」と手を合わせていた。夜遅く電話が来た。
「がんばったよ。お休み」
私は眼頭が熱くなった。』
―この記述は『私の足音が聞こえる マダム鳥尾の回想』(鳥尾多江・文藝春秋・一九八五年七月二〇日)から抜粋。
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引用が長くなってしまったが、憲法改正の駆け引きを背景としたこの話が本当なら、鳥尾子爵夫人は引き受けた任務をよく遂行したということになる。 マダム鳥尾は男女の機微というか、男についてよく心得ていた人らしく、『おとこの味』という題の本も出した。優れた観察力の持ち主だったらしい。上流社会の女性にはそういう才能も必要だったのかと少し考えてしまったが、よく考えてみれば、そういう世界では、おもてなしや説得、感化などで人を動かすことが仕事だから対人関係の才覚がものを言うということなのであろう。外国人が相手の場合は、外国での生活体験や外国語を操る能力も不可欠だが、その条件を満たすことができたのは当時は上流社会の女性以外にいなかった。どこまで本当かわからないが、接待にかり出されたご婦人方にはその道のプロがいろいろ伝授したという話もどこかで読んだ。

もう一人の大物は荒木光子だ。この人の場合は、マッカーサーの下で諜報部長を務めたチャールズ・ウィロビーの愛人だったとCIAの記録に残っていたが、真相はわからない。この人にまつわるミステリーは、松本清張の好奇心をくすぐるに十分だったらしい。川村淳一氏のブログ「『秘録・日本国防軍クーデター計画』(阿羅健一著)の紹介(全2回/第1回)」によると、
「松本清張は、服部卓四郎と辻正信との交友関係、国防軍創設を唱えた服部とそれに反対した吉田茂との関係及びGHQ参謀第2部長・ウイロビー少将と強い繋がりがあった荒木光子を書こうとしたが、執筆を決めた十日後の平成4年4月13日に脳溢血で倒れ、8月に亡くなった。」
詳しくは、日本軍を復活させようとしたウィロビー諜報部長で触れたが、要約すると、荒木光子は三菱財閥の大番頭、三菱本社理事の荘清次郎の娘であり、兄の荘清彦はのちの三菱商事社長。1921年に結婚した夫の荒木光太郎は経済学者で兄の学友だった。荒木は、1923〜1926年に欧米に留学し、独・ 英・米・仏に滞在、光子も同行した。1938 年には日独交換教授として渡独しベルリン日本研究所代表を務め、翌年帰国 する。光子は社交界で活躍し、戦中はドイツ大使館でのパーティーにもよく顔を出していた。戦後、荒木光太郎は公職追放で東大(在職1919〜1945)を追われ、ウィロビーの戦史編纂プロジェクトに日本側の戦史の編集長として雇われた。ウィロビーの率いる占領軍の情報部(G2)は日本郵船ビル(三菱系列)を接収して使用していたが、光子はそこにオフィスを持ち、専用のジープも提供されていた。戦史編纂の仕事では光子も夫とともにコーディネーターとして活躍したらしいことは、荒木光太郎に関する複数の文書に記載されている。

反共諜報活動もウィロビーが諜報部長を勤めたGHQの重要な任務の一つだったが、その関係でも、荒木夫妻が協力したらしい。川村淳一氏のブログ「『秘録・日本国防軍クーデター計画』(阿羅健一著)の紹介(全2回/第1回)」によると、

「ウイロビー少将は荒木夫妻に日本共産党の調査を依頼し、荒木夫妻は服部に相談して、橋本正勝と水町勝城が直接任務に当たった。当時、ソ連から引き揚げてきた将兵は舞鶴で「スターリン万歳」をしてそのまま代々木の日本共産党に行って入党手続きをしていた。荒木光子はウイロビー少将の期待を一身に受けて活動した。」
同姓同名の別人かも知れないが、荒木光子らしき人の写真はインテリアコーディネータの村上英子さんのページにあった。下の写真の女性が働いていたパシフィックハウスというインテリア設計事務所に村上英子さんが入社したのが1956年だというから、この写真は1956年以降に撮られたものであろう。ウィロビーは1951年4月に日本を去ったマッカーサーの後を追うように日本を去り、夫の荒木光太郎は1951 年 9 月 29 日に肝臓病で死去。1952年4月にはGHQに接収されていた建物が返還され、4月28日に日本は主権を回復した。服部卓四郎(元参謀本部作戦課長)がウィロビーの下で日本側の戦史の編纂をしながら、GHQの目を逃れて別途編纂していた『大東亜戦争全史』は1953年に出版された。だから、1956年には光子はGHQや戦史編纂に関係した仕事から解放されていたはずである。そのころ光子は50代なかば、写真の人の年格好とも矛盾しない。光子は「荒木家に画を学ぶために出入り」していたというからインテリアというのも納得できる。海外生活、マニッシュ、などという記述から考えてほぼ間違いないと思う。


尊敬する人は、インテリアの恩師である荒木光子女子。荒木光子女子
故荒木光子女子。着物姿は珍しかったとのこと。

 私のインテリアの恩師は荒木光子女史です。
 荒木さんはその当時にして、ヨーロッパをはじめとする海外生活が長く、英語、仏語と語学が堪能でした。多くのヨーロッパの文化人と対等に交流し、本物を知っていました。そして、おしゃれで、マニッシュなスーツと帽子がよく似合う素敵な方。私がいちばん尊敬する方です。

荒木家の光子(1904-1986.6.5)の墓には十字架とフランシスカという戒名/クリスチャン名が刻まれているそうだ。

マッカーサーは将校たちの日本女性との関係を憂慮して、高級将校に夫人を呼び寄せることを許可したということだが、民政局次長のケーディス大佐に取っては、時既に遅しであった。マダム鳥尾のことを夫人が知るところとなり、離婚沙汰になってしまった。

一般の将兵に対する「もてなし」ももちろんあった。ウィキペディアの特殊慰安施設協会(RAA)のページによると、
占領軍の性対策については内務省警保局が1945年8月15日の敗戦直後から検討した。
8月17日に成立した東久邇内閣の国務大臣近衛文麿は警視総監坂信弥に「日本の娘を守ってくれ」と請願したため、坂信弥は一般婦女を守るための「防波堤」としての連合軍兵士専用の慰安所の設営を企画した。
8月18日、内務省は同省警保局長橋下政実によって「外国軍駐屯地に於る慰安施設について」(「外国軍駐屯地における慰安施設設置に関する内務省警保局長通牒」)、および「外国駐屯軍慰安設備に関する整備要項」を各県に行政通達し、警視庁は花柳界の団体と打ち合わせを行った。 
連合国軍対策の一環として同月26日に外国軍駐屯地における慰安施設が設立された。戦後の進駐軍の日本占領に当たり、日本の婦女子の操が進駐軍兵士らによって汚される恐れがある。それならば性の防波堤を作って一般婦女子を守りたい、との思惑からである。
すでに占領直後に、連合国軍、特にアメリカ軍がこの種の「サービス」を提供するよう命じたともいわれ、1945年8月22日付で発令された内務省警保局「連合軍進駐経緯ニ関スル件」という文書の最後の項目に「聯合軍進駐ニ伴ヒ宿舎輸送設備(自動車、トラック等)慰安所等斡旋ヲ要求シ居リ」と記されている。
当時、東京都の仕事をしていた磯村栄一氏は、占領軍からの命令でレクリエーション・センターと呼ばれた占領軍のための慰安所を設置したことを、ほぼ半世紀後に告白している。ウィキペディアの特殊慰安施設協会(RAA)によると、
占領軍はRAAだけでは満足できずに、GHQの軍医総監と公衆衛生福祉局長サムス大佐が9月28日に、東京都衛生局防疫課長与謝野光に対して、都内で焼け残った花街5カ所と売春街17カ所に触れながら、占領軍用の女性を世話してくれと要求した。また、与謝野光は将校、白人兵士、黒人兵士用の仕分けの相談も応じた。
GHQは「都知事の責任において進駐軍の兵隊を性病にかからせてはいけない」と性病検診を命令し、与謝野はこれを受けて東京都令第一号と警視庁令第一号で性病予防規則を制定し、週一回の強制検診を実施した。都は、10月22日に「占領軍兵士を相手にする女性の性器の洗浄と定期的な検診の義務付け」を盛り込んだ規則を制定した。これが、戦後都政が発令した第一号の条例である。
売春婦の6割が性病に感染していたというが、占領軍は性病の管理をすべて女性の責任として取り締まった。当時、アメリカ兵はコンドームを支給されていたはずだが、当時のコンドームは分厚かったから、彼らは性病や妊娠の予防よりは快感を重視したということなのだろう。この性病対策は、主権回復後も米軍基地周辺の売春婦に対して継続された。2014年に日本占領を問い直す―ジェンダーと地域からの視点―という博士論文を書いた人がいるが、それによると、
キャンプフジ司令官は、日本の独立後盛んになった基地売春への批判と、米本国からの批判に対して、兵士の性病感染率が上昇するとその機をとらえて売春地区へオフリミッツ策をとった。米兵の立入禁止によって、経済的打撃を受ける地域では、オフリミッツ解除のために、性病検査をより徹底化する。極東軍司令部も、このオフリミッツという経済的脅しをかけては、地元行政と業者によりクリーンな売春を提供させる方法を、「有力な武器になる」とさえ考えていた。独立後も基地周辺では占領的な状況が続いていたのである。

占領軍は、もともと将兵が売春施設へ出入りして、いかがわしい女たちと関わることを禁止する方針でいたから、占領7ヶ月で禁止のお布令が出て、公の施設は閉じた。日本占領を問い直す―ジェンダーと地域からの視点―によると、
1946年1月21日に出された公娼制度廃止指令は、遊郭の女性を縛ってきた前借・年期制度を人身売買として禁止するものであったが、「売春そのもの」は禁じていない。そこを見越して日本側は、「個人の自由意思」による売春稼業の継続を図った。
さらに、「占領初期にルーズだった米兵の買春行為への態度は、GHQのG-1(軍司令部参謀第一部)に陸軍規律維持を重視するスタッフが台頭してきた占領中期の1947年に入ってから変化した。」米軍はこの問題を道徳と規律の問題と捉えて 「性道徳と精神的アプローチによって買春を減じようと」して、「兵士の適度な運動を確保し「個人の尊重」をはかることが性病予防の根本的対策になるという認識を打ち出した。」のだそうである。しかし、それで暇を持て余していた将兵たちの性行動を制御できる訳がないから、公娼施設が民営の売春施設に変わり、パンパンやオンリーと呼ばれた占領軍相手の売春婦が派手な格好で街を闊歩しただけでなく、強姦も増えた。キリスト教的道徳を振りかざして現実の人間に適切に対応しようとしない偽善者が幅を利かせるアメリカの面目躍如である。

それでは、当時の日本社会はどういう反応をしたのか。当時の社会通念では、日本でも欧米社会でも婚外・婚前交渉はタブーだった。しかし、貧困のどん底にあった日本社会は占領軍が女たちを通して落とすお金や食料を必要としていた。日本占領を問い直す―ジェンダーと地域からの視点―によると、
 地元住民のパンパンに対する姿勢は、時代と階層・生業によって異なる。当初、パンパンたちの村への流入を、「村の娘が暴行されないから必要だ」という性意識で受容した村人たちには、パンパンに対して「特殊女性観」はあったものの、差別観や排除の気持ちはなく、むしろ、地域住民とパンパンたちの「共生関係」のようなものも醸成されていた。特に、パンパンを間借りさせた家には女性家主も多く、社会的弱者(「戦争未亡人」とパンパン)が互いに寄り添い、「共生」するという面もあったと想像できる。他方、行政・教育関係者や婦人会・青年団など、パンパンに依存しないですむと考えられる層が1952年7月に「風教衛生対策に関する要望書」としてまとめた意見書では、パンパンを社会風俗上迷惑な存在として、一般住宅と分離した「特殊地区」へ囲い込み、取り締りと性病検診を徹底させるように求めている。婦人会は、パンパンの児童公園への立ち入り禁止、浴場の湯船の分離まで訴えた。他方、米軍に対する要望は1点のみで、買春側への問題視は抜け落ちている。
当時、日本では売春は犯罪ではなかったが、次第にアメリカに迎合した性道徳観が幅を利かすようになり、売春婦は社会風俗上迷惑な存在として、隔離すべき存在として扱われるようになった。ついには、1956年に成立した売春防止法によって売春は犯罪になった。買う方の男たち、米兵は罪に問われない。日本社会が「性の防波堤」を提供した彼女たちに感謝の意を表したりねぎらったりした形跡はないどころか、ウィキペディアの特殊慰安施設協会(RAA)によると、
賀川豊彦は『婦人公論』1947年8月号で「闇の女に堕ちる女性は、多くの欠陥を持っている」とし、パンパンについては「わざと悪に接近」するような悪魔的なところがあり、「一種の変成社会における精神分裂病患者である」と指摘している。
また、
YWCAの植村環は『婦人公論』(1952年5月号)で「アメリカの寛大な統治を悦び、感謝しており」とする一方で慰安婦たち「卑しい業を廃めさせ」るよう要求したり、「パンパン」を「大方は積極的に外人を追いかけて歩き、ダニのように食いついて離れぬ種類の婦人」と述べたり、「あんなに悪性のパンパンに対しては、白人の方だって、あの位の乱暴は働きたくなりますさ」などと語るなど、売春問題を買う男ではなく売る女性の方を問題としていた。
二人ともキリスト教徒であるが、これが当時の良識ある日本人の一般的な感覚だったのかキリスト教徒のみに見られたものだったのかは、当時まだ幼かった筆者にはわからないが、今日の感覚では、醜いのは、このような迎合主義者の方であると思うのは筆者のみであろうか。占領軍に「食いついて」うまくやっているように見えたパンパンたちに対するやっかみもあったに違いない。征服者に取り入ってうまくやることに対する屈折した心理は、属国状態が続く限り消えない、それが売春であれ売国であれ。自分を売るという観点から見れば、売春も迎合も大差ない。「アメリカの囲い者」である現実から逃れることはできないのだ。

占領軍と被占領民の間の性の問題は、売春や強姦だけでは終わらない。妊娠と混血児の問題も深刻だった。当時の社会通念では、日本でも欧米社会でも婚外・婚前交渉はタブーだった。当然、独身女性が子供を生むことも育てることも社会から白い目で見られた。それが強姦の結果なら、なおさら隠蔽して闇から闇に葬られなければならなかった。それが敵兵との混血児となればなおさらのことであっただろうことは容易に想像がつく。人工妊娠中絶、嬰児殺し、捨て子などが横行した。そのような事態に直面したのは日本本土の女性だけではなかった。大陸や半島で捉えられ奴隷にされた人々、命からがら脱出してきた引揚者、さらには沖縄住民の間では多数の女性が強姦され、繰り返し強姦された例も少なくなかったという報告もある(闇に葬られる終戦後の日本女性の悲劇を参照)。日本本土では、嬰児殺しや捨て子は、占領が始まって10ヶ月目(妊娠してから出産するまでの月日)から顕著になった。それを見かねて、捨てられた混血児のための孤児院、エリザベス・サンダース・ホームを作ったのが、三菱財閥の本家、岩崎家の長女、澤田美喜であった。



『GHQと戦った女 沢田美喜』を書いた青木冨貴子氏の話によると、「占領軍は混血児を「米軍の恥」ととらえ、「恥の宣伝」であるホームの設立に強く反対したという。沢田はだから「GHQと戦った女」なのだ。」この本にはそれを美喜の息子がどう見ていたかも書かれている。
「慈悲の心で可哀想な子どもたちを救おうとした」というのが巷の風説である。ところが、美喜の長男である沢田信一はこの説を一蹴。母がホームを開いた理由を問われて、皮肉交じりに著者に答える。
「混血児の存在を明らかにし、財閥解体をして自分たちを窮地に追い込んだGHQに赤恥をかかせてやりたかったのでしょう」(なぜ財閥令嬢は混血孤児を救おうとしたのかより)
美喜が決意したときの状況は、「ある日、満員列車で美喜の目の前に網棚から紙包みが落ちてきた。黒い肌の嬰児の遺体だった。美喜の頭に血がのぼり、心臓が激しく鳴った。イギリスの孤児院ドクター・バーナードス・ホームの記憶が突然よみがえった。美喜は天命を覚えて身震いした。」と「三菱ゆかりの人」に説明されている。当時の進駐軍の態度については青木冨貴子著の『GHQと戦った女 沢田美喜』に次のような記述がある。
「進駐軍に誰ひとり立ち向かえなかったアメリカ一辺倒のあの時代、米兵のおとし子のための施設をつくることはGHQに歯向かうことにほかならなかった」。「子供の母親たちは混血児を生んだという恥を隠すために、父親について何も語らず、子供を殺すか、捨てることになるという。生き残った子供の多くは混雑した鉄道の駅や皇居前の広場、あるいは公衆便所などで発見される。肺炎にかかっていることが多く、市内の公立の孤児院に引き取られる。公立の施設は不潔で非衛生的な場所である。・・・米軍は混血児を引き取るつもりなど毛頭ないばかりか、その存在を消したいと考えていたことは明白であった」。「米軍が日本人女性に子供を生ませている現状が本国に明らかになる。軍はこのような道徳的頽廃を、ワシントンに知られてはならないのだった」。「美喜と進駐軍との戦いは、占領が終わる昭和27年(1952年)ごろまで続いた。サムス(GHQ公衆衛生福祉局長、准将)をはじめとする数名のなかなか手強い相手が、ホーム設立から4年というもの、手をかえ品をかえ、ホームの転覆を謀ったが、美喜は最後まで屈しなかった」。(情熱的読書人間・榎戸 誠氏のブログより)
これは私の解釈と推測でしかないが、美喜が目にした光景は、占領下の日本の荒廃を象徴していた。だから、米国によって破壊された国土で飢えに苦しみ、懸命に生きようとしていた日本人を人道さえ省みないところまで追い詰めた占領軍に対する怒りが爆発した。美喜は三菱財閥の創業者岩崎彌太郎の孫娘。占領下の財閥解体で痛めつけられたとはいえ、日本を背負ってきた岩崎家の令嬢であった。これは自分にしかできない。自分がやるしかない。美喜はそういう立場にあった自分を自覚したのではないかと思う。外交官の妻として広く欧米諸国を見て回り、孤児院を訪問した経験も役に立った。外交官の妻として磨いた英語力もGHQとの戦いに役に立った。孤児院のことばかりでなく、美喜は米軍に接収されていた岩崎邸や澤田邸の管理についてもGHQと掛け合わなければならなかった。

占領下で活躍した、マダム鳥尾、荒木光子、沢田美喜などについて知ると、さすが大和ナデシコと思う。しかし、パンパンやオンリーと呼ばれた女性たちについて思いをはせると、なんともやりきれない、やるせない気持ちに襲われる。占領軍と被占領民との力関係、男と女の力関係、勝ち組と負け組みの力関係が浮き彫りになって迫ってくる。さらには、占領軍に迎合して、彼らのうわべだけのきれいごとに踊らされる日本人。占領軍と文字通り体を張って向き合うほかなかった女たちから汚いものに蓋をするように顔を背け、やっかみ半分、勝者の偽善的な道徳を傘に着て非難する。最後には、「性の防波堤」になった女たちを犯罪者扱いして何の矛盾も感じない。性病対策も、女性たちに対する医療サービスというより、占領軍将兵の安全のために行われた「商品」の「品質管理」であった。進駐軍の憲兵による「狩り込み」と呼ばれる事件があちこちで発生したが、そこでは通行人であった女性たちが無差別に逮捕され、病院に連行されて膣検査を強制された。そこで強姦された者もいたという。占領軍が日本女性全員を性的征服の対象と見ていたことを如実に示す事件だった。

西尾幹二氏が戦時慰安婦に関する記者会見で見せた憤りは、日本人なら誰でも感じる欧米人の欺瞞と偽善に対する憤りであろう。しかし、残念ながら、日本社会はその欺瞞と偽善に迎合することに忙しかったことも自覚して反省しなければならない。未だに「従軍慰安婦制度というものが極度の人権侵害にあたるという事実には変わりはない。」などといっている連中も、「平和憲法」を念仏のように唱えて、現実の力関係を見ようとしない連中も、征服者の欺瞞と偽善に迎合しているだけであることを自覚する必要がある。

人類史上最も古い職業といわれる売春は、恣意的な道徳基準を押し付けることによってなくすことができるようなものではない。性がビジネスになじまない神聖なものであるかのように道徳で縛っておいて、強姦という形で冒涜することをなんとも思わない偽善者に慰安婦制度やセックスビジネスを云々する資格はないのだ。日本人の人間観も倫理観も知らない彼らは、自分たちのやってきた醜い行為を日本人に投影して日本人に罪を擦り付けているに過ぎない(チャンネル桜のいわゆる「従軍慰安婦問題」の嘘を参照)。もっとも、西洋文明もチャイナ文明も自分の私有財産権を声高に主張しながら、他者から強奪=レイプすることによって富を築いてきた文明なのだから、それを十分に見定めずに付き合って、その餌食にされたことを今更嘆いてもしかたがない。彼らの捏造した歴史の中では、日本がチャイナをレイプしたことになっているが、それは彼らなりの日本に対する賛辞だったのかもしれない。



2017/06/25

とんでも本Japan's Imperial Conspiracy(天皇の陰謀)の著者の意図

この本、アメリカ人、デビッド・バーガミニ著の『天皇の陰謀』1971年出版は、中国系米国人アイリス・チャンの書いた『ザ・レイプ・オブ・南京――第二次大戦の忘れられたホロコースト』1997年出版の下敷きとなった本だそうである(南京虐殺本・米国知識人からの批判を参照)。この本に出会ったのは、占領下の日本についていろいろ調べていたとき、この本を訳して公開している松崎元という人のサイトにたどり着いたからだった。

天皇の陰謀
Japan's Imperial Conspiracy
by David Bergamini, 1971
ディビット・バーガミニ著:松崎 元 訳
占領軍を日本人はどう「もてなした」かを調べていたので、「ロマンスの開花」セクションが検索に引っ掛かった。面白いと思ったので、さらにあちこち読んでみた。読めば読むほど「講釈師、見てきたような嘘を言い」という印象が強くなった。しかも、どうやら日本人にはキリスト教徒のような「立派」な倫理(特に性に関する)がなく、卑屈で、冷徹な奸計をめぐらして人を平気で欺くという印象を読者に与えようとしているらしいのである。翻訳では著者の姿勢やトーンがわかりにくいので、元の英語の本も取り寄せて読んでみることにした。

「著者より読者へ」を読むと、著者は日本生まれで9歳まで日本で育ち、その後、あの日中戦争初期の1937年10月に父親の仕事の関係で中国へ行き、さらにフィリピンに引っ越したら日本軍がやって来て強制収容所に入れられ、政情が安定していた一時期は家に帰ることができたが、終戦は収容所で迎えたとある。父親のJohn Van Wie Bergamini (1888 – 1975) は、建築家であったが、エピスコパル派の宣教師でもあった。日本では聖路加病院の建築に携わった。

この本を書いた動機については、戦中に中国とフィリピンで見聞きした残虐な日本人と戦前の日本で体験した「物静かで、思慮深く、思いやりがあって親しみのもてる」日本人とを自分の頭の中でどう折り合いを付けていいのかわからなくなり、やがて日本人の残虐な行為を、「当たり前かのごとくみなすようになっていた。父の友人たちは、それを明らかな「日本人の劣等感」のゆえとしていた。近くに住んでいた中国人将軍は、それは日本の指導層に責任があると言っていた。彼によれば、日本は世界を征服しようと望む尊敬すべからぬ天皇によって統治されていた。私は、この将軍の見方を、そのシンプルさゆえに、受け入れていた。」と書いている。つまり、天皇が舵取りをしていたのだから、天皇個人が戦争犯罪人として糾弾されなかったことは許せない、天皇が名前だけの元首だった、盲判を押していたなどという言い訳は通用しない、西洋の立憲君主のイメージから派生する先入観につけ込んだ、ずる賢い日本人にだまされてたまるかと言いたかったらしいのである。

さて、日中戦争当時のアメリカにおける大掛かりな反日プロパガンダとコミンテルンの陰謀について、江崎道郎氏の研究を学んだ方は、バーガミニがちょうどその頃、キリスト教の宣教師だった父親に付いて中国に行っていたと聞いて、ちょっと待てよと思ったに違いない。なにせ、当時中国で宣教活動をしていたアメリカの宣教師たちは、YMCAを中心に、日本軍の中国人に対する残虐行為を許すなという反日プロパガンダを捏造拡散した勢力の中核を形成していたのだから。

日本人の犯した「戦争犯罪」のみを、執拗に追求するのはなぜか。日本人の残虐行為に対して空襲と原爆で報復した、お相子だと言っておきながら、シナ人やアメリカ人の犯した戦争犯罪を問題にすることなしに、日本人の戦争犯罪のみを追求する異常さが全く気にならないらしい。それだけで、この本を書いた動機が歪んだものであると判断せざるを得ない。

あの戦争は日本人に対する戦争ではなく、ファシズムに対する戦争だったのだそうだが、それが原爆や空爆による日本人大量殺戮や軍事裁判というリンチの言い訳になると考える神経回路は理解に苦しむ。

天皇がseremonial figurehead (儀式上の名目だけの長−xxxviiページ)だなどと誰が言ったのか。天皇を「象徴」と位置づけたのは占領軍である。雲上人の天皇は「ただの」象徴的存在で、地上の民の生活など一顧だにせず贅沢三昧の結構な生活を送っていると想像していたのは日本人ではない(日本人でも共産主義者はそう思っていたらしいが。。。)。それは自国の王制や皇帝の歴史から勝手に類推していた白人やシナ人である。バーガミニはそのことを十分承知の上で、英語の読者向けに天皇が実際にどのような権力を持っていたかを示すためにこの本を書いたと言う。しかし、残念ながら、資料の質を考慮せずに、嘘と偏見で凝り固まった視点から都合の良い資料を選択したことは明らかである。本人のバーガミニが前書きで、
I set out to select the most pivotal events from my research and to bring them alive with light and color...I did my best to make the reader feel that he was present.
と白状している。ただ、メリハリを付けて生き生きとした臨場感あふれる物語として書くという目標は達成しているから、何も知らない読者はつい引き込まれてしまう。占領軍に対する「もてなし」に関する話も、アメリカ人が日本人のずる賢い不道徳な誘惑にいかに負けてしまったかという印象を与えるように書かれている。何せ占領軍が上陸する前から、上は皇族から下はヤクザまがいの土建屋までが協力して、RAA (Recreation and Amusment Association)または特殊慰安施設協会という公のセックスビジネスを準備し、そのもてなしで占領軍を懐柔し、有利な条件を引き出そうと腐心し、私財まで投入していたというのだから。

一方当時、東京都の仕事をしていた磯村栄一氏は、占領軍からの命令でレクリエーション・センターと呼ばれた占領軍のための慰安所を設置したことを、ほぼ半世紀後に告白しているが、パーガミニはその命令については一言も触れていない。さらに、ウィキペディアの特殊慰安施設協会のページによると、
占領軍はRAAだけでは満足できずに、GHQの軍医総監と公衆衛生福祉局長サムス大佐が9月28日に、東京都衛生局防疫課長与謝野光に対して、都内で焼け残った花街5カ所と売春街17カ所に触れながら、占領軍用の女性を世話してくれと要求した。また、与謝野光は将校、白人兵士、黒人兵士用の仕分けの相談も応じた。
GHQは「都知事の責任において進駐軍の兵隊を性病にかからせてはいけない」と性病検診を命令し、与謝野はこれを受けて東京都令第一号と警視庁令第一号で性病予防規則を制定し、週一回の強制検診を実施した。都は、10月22日に「占領軍兵士を相手にする女性の性器の洗浄と定期的な検診の義務付け」を盛り込んだ規則を制定した。これが、戦後都政が発令した第一号の条例である。
ということだが、パーガミニはそれにも触れていない。占領軍は、将兵が売春施設へ出入りし、いかがわしい女たちと関わることを禁止する方針でいたから、占領7ヶ月で禁止のお布令が出て、公の施設は閉じた。しかし、それで暇を持て余していた男たちの性行動を制御できる訳がないから、公娼施設が民営の売春施設に変わり、パンパンやオンリーと呼ばれた占領軍相手の売春婦が派手な格好で街を闊歩しただけでなく、強姦も増えた。キリスト教的道徳を振りかざして現実の人間に適切に対応しようとしない偽善者の面目躍如であるが、その顛末にも触れていない(チャンネル桜のいわゆる「従軍慰安婦問題」の嘘を参照)。

天皇の話に戻ると、天皇と国民の関係は女王バチと働きバチの関係に比較するとわかりやすい。女王バチと女王バチ候補の幼虫は特別に保護され、ロイヤルゼリーという特別なご馳走を与えられる。だからといって、女王バチは好き勝手なことをして贅沢三昧な暮らしをしている訳ではない。外に出て飛び回ることができるのは、一生に一度だけ、古巣を出て新しい巣を作り、空高く舞い上がって雄バチと交配した後は、一生巣に閉じこもって卵を産むことに専念する。働きバチが一生懸命働くのは、奴隷使いのムチが怖くて渋々命令に従っているからではない。巣の繁栄と子孫のためにそれぞれの役割を一生懸命に遂行しているにすぎない。

天皇は国民を産む訳ではないが、「日本人」としての心の拠り所を示すという意味では、国民を産むと言えるかもしれない。イメージや比喩でしか世界を理解できない人間に、国の要の在り処を示し、国の存続と繁栄という共通の目的のために各自がそれぞれの役割を果たすことに意味があることを、国が一つの有機体、一つの生命体であることを、国を天皇あるいは皇室に投影することによって具現化あるいは視覚化するために日本人が維持してきた知恵である。

日本の歴史において、天皇あるいは皇室がどのような役割を果たすべきかは、明確に規定されていた訳でも、理解されていた訳でもない。その時々の天皇あるいは皇室がその時々に必要とされる役割を柔軟にこなす力量があったから、これまで天皇制が維持されてきたのである。天皇が圧倒的な力と奸計で日本国民を制圧して権力を維持してきたと考える人がいるとすれば、それは日本の歴史を全く知らない人間であろう。歴代の将軍たちには、皇室を抹殺する力と機会が幾度もあったが、やらなかった。あの占領軍のマッカーサー元帥でさえその知恵を踏襲したのである。天皇は日本の歴史の曲がり角の要所要所で、天皇だからできることをしてきた、それが天皇制の長寿の秘訣であり、日本国の長寿の秘訣だった。のほほんと贅沢三昧で暮らしてきた人間にできることではない(江崎道朗の「戦後体制と天皇陛下 ~国民の幸福を祈念する皇室の伝統~」を参照)

ペリーが4艘の黒船で東京湾に侵入してきて以来、日本は白人の帝国主義者たちに立ち向かうための体制を整えようと右往左往してきた。天皇はそれを手をこまねいて傍観できる立場にはなかった。天皇制は日本の国もろとも白人に破壊されて消滅するかもしれなかったのだから。天皇が指導力を発揮しなければならない局面がいくつもあった。それは日本人にとっては、ごく自然のことであったが、それをあの戦争の本当の原因を掘り下げることなく、偽文書を基にして、あの戦争は世界制覇を目指した天皇の陰謀であり、その天皇個人を戦争犯罪人として糾弾しなかったのはけしからといわれても、ごもっともですという訳にはいかない。もっとも、あのインチキ軍事裁判の論理からすると、鬼畜英米!やっちまえ!と騒いだ日本人はみんな戦犯になる。

バーガミニが天皇の役割を正しく理解していれば、Imperial Conspiracy(天皇の陰謀)ではなく Imperial Resolve(天皇の覚悟)という題の本を書いたに違いない。残念ながら、バーガミニは自分の思い込みを証明するために、あるいは古いプロパガンダを再生させるために資料を選び、見てきたような嘘をつくことを恥としなかったと思わざるを得ない。この本は歴史ではなくフィクションであり、プロパガンダである。

ついでに言わせてもらうと、あのインチキ裁判裁判長を勤めたオーストラリア人が臆面もなく前書きを書いていること自体が、この本のいかがわしい正体をいっそう明らかにしている。

2017/05/12

日本軍を復活させようとしたGHQのウィロビー諜報部長

チャールズ・ウィロビー(Charles Willoughby)という名前に最初に遭遇したのは、Researching Japanese War Crimes: Introductory Essays(日本の戦争犯罪の調査:紹介エッセイ)2006年出版、というアメリカ議会の調査報告書の中であった。これはCIAの古い機密文書が公開されたとき、その中に日本の戦争犯罪に関する証拠が含まれているのではないかという期待から、アメリカ議会が、Interagency Working Group (IWG)という調査機関を作って、公開された全文書を虱潰しに調べる過程で作成された中間報告書である。

この日本人による戦争犯罪についての中間報告を読むと、あたかも日本軍が化学兵器や生物兵器を研究していただけでなく、実際に戦争に使ったという証拠がたくさんあるかのように書かれているが、実際には、噂や伝聞が報告されていただけで、確かな証拠はないし、目撃したアメリカ人もいないと次のように書かれている(これは生物兵器や化学兵器だけでなく、ほとんどすべての日本人による戦争犯罪記録に共通している。さらに言わせてもらえば、目撃者や被害者の証言もそれをサポートする別の証拠がなければ確かな証拠とはならないことは慰安婦問題でいやというほど見てきたし、目撃者の証言にいたっては、ほとんど当てにならないことを示す心理学的実験もいろいろある。)
The document also refers to several incidents of reported use of biological weapons by the Japanese in China, although it suggests that the evidence of these attacks is inconclusive. Finally, the new records also include a May 1945 intelligence report based on a CWS mission to China to investigate Japanese biological and chemical activities. The document describes several reported incidents of biological and chemical attacks, although it noted that no Americans had personally seen any of these.(66ページ)

しかも、この報告書の表紙にも使われている中国での大量殺戮の証拠とやらは、目撃した日本の軍医の日誌の1ページで、元のページは破かれていて、読みやすいように書き直したページで差し替えたものだと言うからあきれてしまう。そんな物が証拠になる訳がない。この部分を書いた人の名前がDaqing Yangと中国風であることも気になる。最終報告書には戦争犯罪に関して新しい発見は何もなかったこと、日本軍の戦争犯罪を見逃さないようにと圧力を掛けてきた「抗日連合会」というカリフォルニア州の中国系団体がいたことなどが書かれている。これについては、ケント・ギルバート氏の話も参考になる。

ウィロビーの話に戻ると、ウィロビーはGHQの諜報部長として占領下の日本で戦史の編纂や諜報活動を指揮した。そして公開されたCIAの機密文書(ウィロビーから引き継いだものもあったらしい)にはウィロビーの下で戦史の編纂や諜報活動をした日本人、主に元日本軍将校たちに関するファイルが含まれていた。戦史の編纂はウィロビーの得意分野であったらしく、1939年に『Maneuver in war』を書いて、古今東西(ナポレオン戦争、スペイン内戦、日中戦争、イタリア−エチオピア戦争)の主要な戦いを図解入りで分析している。詳しくは読んでいないが、日中戦争がどう戦われたかに興味がある人には重要な文献の一つであろう。日本が経済封鎖下で日中戦争をどれくらいの期間戦えるかも予想している。南北戦争や第一次世界大戦ドイツの例を取って4年持つかもしれないと言い、資源の産地である東南アジアを取りにくることも予想している。


The Confederacy fought on a shoe-string for four years; the Germans in 1914-18
were able to carry on; these historical precedents make predictions uncertain...
...
Its weakness is lack in strategic raw materials: oil, scrap iron, copper, lead, nickel. An embargo on these vital items* would not yield immediate results, since reserve stocks are undoubtedly available, but long-range pressure would be effective. Sanctions, however, are fraught with unpleasant consequences; they are not an easy half-way house between neutrality and war; it is hardly likely that the Japanese army and navy would bow to economic pressure and accept defeat without a struggle; it is for more probable that they would strike out for Netherlands-India, French Indo-China, the Philippines, Malaysia—any place within naval range which would provide oil, tin, rubber and iron.**
* The abrogation of current treaties is considered by many as the prelude of sanctions to be applied at a later date.
** Foreign Affairs, April 1939, "Japan at War.
(p 228-229)
占領後期、朝鮮戦争が勃発した1950年ころから占領軍の情報部(通称G2)に取ってかわったCIAは、G2の仕事を監視し、調査していたらしく、上記の中間報告の"The Intelligence That Wasn’t: CIA Name Files, the U.S. Army, and Intelligence Gathering in Occupied Japan"(名前だけの情報機関:占領下の日本におけるCIAの人物ファイル、米軍、諜報活動)セクションにはその評価の概要が報告されている。タイトルからも伺えるように、G2はまじめに仕事(反共諜報活動)をしていなかった、ろくな記録も残されていない、地下組織を維持していた日本の元軍人たちや右翼に金蔓として適当に利用されていただけだったという厳しいというより馬鹿にした評価であった(金蔓といっても、GHQの費用は日本政府が払わされたそうだから、占領軍の腹は痛まなかったことも覚えておく必要がある)。

元軍人たちの地下組織という話は初耳だったから、「さすがは日本人。転んでもただでは起きない。」などと思いながら読み進んだ。中心人物として挙げられているのは、Arisue Seizo, Kawabe Torashirō, Hattori Takushirō, Kodama Yoshio, Tsuji Masanobu, Kaya Okinoriである。聞き覚えのあった名前は児玉誉士夫(軍人ではなく、闇組織の親分)のみである。公開されたCIAの文書には彼らが戦犯だったか、またはその可能性があったかどうかの判断は書かれているが、その判断のもとになったはずの戦中に何をしていたかはあまり詳しく書かれていないという。占領軍に協力する条件として戦犯かどうかは不問に伏してもらったとか、戦犯ステータスを解除してもらったとか、袖の下を払って外してもらったとかいう人もいたというから、いい加減なものである。日本人は全員戦犯だと息巻いていたアメリカ人が多かったから、まぁ、そんなものかと思う。戦争を支持し推進した者は戦犯だという基準だから、反戦運動で左遷されたり牢獄に入れられていた連中以外はみな戦犯だった。牢獄に入れられていた反戦主義者や左翼はGHQによって「解放され」、アメリカがソ連と中共、共産主義者を危険視するようになるまでは我が世の春を謳歌していた。ゾルゲ事件で有罪になった者まで釈放された。

占領期間中、占領政策によって公職追放された元日本軍将校や政府高官、政治家、実業家、学者、ジャーナリストたちのネットワークと、彼らの生活を支えていた地下組織があったこと、それが占領軍によって支えられていたことは筆者にとって新しい発見だったが、これで戦後体制の謎を解く一つの手掛りがつかめたとも思った。しかも彼らは占領軍が手荒な報復に出た場合に備えてレジスタンス運動のための武器を日本各地に隠し持っていたという。CIA/占領軍はそれも知っていた。それについては有末精三に関係する次のような記述がある。
...in conjunction with other officers, he also laid plans to resist the U.S. forces should the occupation prove excessively punitive. The core of this resistance was to be a network of former classmates and students from the Nakano intelligence school who, among other things, buried secret caches of weapons across Japan and quietly maintained loose contact with one other.(199 ページ)。

マッカーサーはポツダム宣言に沿って、戦犯を洗い出して処罰し、軍国主義者(軍人)を権力の座から排除(公職追放)すること、軍事産業を解体して工場ごと中国に移動し、憲法を改定して日本が二度と歯向かうことができないようにすること、日本社会を「民主化」することなどを日本統治の課題として与えられていたが(日本はなぜ侵略史観・自虐史観を押し付けられたのかを参照)、部下たちの中には私腹を肥やすことや共産主義革命を促進することに熱心だった者も少なくなかったようだ。これについては、キサラギ・ジュンのGHQに関するブログが詳しい。

ウィロビーが同格の同業者、有末精三中将(元参謀本部第二部長=情報部長)を顧問に雇ったのは、IWGの中間報告によると1945年9月だったことになっているが、ほかの資料では1946年となっているから終戦直後の1945年は間違いであろう。いずれにしても、有末は厚木の飛行場に占領軍を迎える準備を指揮したから、米軍にはなじみの顔だった。しばらくイタリアに留学・駐在していたから国際感覚もあった。有末は回想録を出していて、それについて書かれたブログがあちこちにあるが、それらを総合して考えると、有末は英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語を話せた上に、人あしらいが上手だったらしい。ドイツ生まれで18歳までヨーロッパで教育を受けたウィロビーは強いドイツ語なまりの英語を話したというから、ヨーロッパ滞在の経験があり、ドイツ語もでき、ファシストのムッソリーニに心酔していたという共通点まであった有末はうってつけだったに違いない。有末の手記には、ウィロビーが占領軍内の対立についてしばしば有末に愚痴をこぼしていたと書かれているという。同じく有末と前後してGHQの顧問になった河辺虎四郎もドイツ駐在の経験がありドイツ語ができたらしい。ちなみに、河辺は占領軍を迎える(降伏、武装解除する)手順の打ち合わせの責任者としてマニラまで出かけていたから、やはり敗戦日本の事務方の代表として米軍にはなじみの顔であった。
昭和20年8月19日、マニラへ。降伏協議を行うため沖縄の伊江島に降りた参謀次長河辺虎四郎中将以下降伏使節団。伊江島への着陸場面から米軍C-54に乗り込みマニラへ飛び立つまで。おまけとして?終盤にサマール沖海戦の動画あり。(下のウィロビーと河辺の写真はそのときのマニラでのものと思われる。)

余談になるけれども、元軍人のネットワークといえば、幼いとき(占領時代)、父の戦友だったらしい人がたまに訪ねてきたことを覚えている。その中に旅回りの写真屋がいたらしく、そのときに家の前で撮ってもらった家族写真が残っている。勝手な想像だったのかもしれないが、なぜか幼いときからそう思っていた。父は満州にしばらく駐屯したあと、四国の部隊で終戦を迎えた一兵卒にすぎなかったから、地下組織がそこまで延びていたのかどうかはわからないが、年賀状のやり取りが長年続いていた。

公職追放になった元軍人や政府高官、さらには実業家や学者、ジャーナリストにかわって、要職を埋めたのが、左寄りの人間で固められていたGHQ民政局が自由にさせていた左派系勢力や反戦反日勢力であったことを考えると、このとき形成された陰の組織(右派)と表の組織(左派、反戦反日)の対立が戦後日本の勢力争いの底流となっただろうことは容易に想像できる。

GHQ民政局がいかに左寄りだったかについては『しばやんの日々』の「アメリカがGHQの中の左翼主義者の一掃をはかった事情」に次のような引用がある。
「総司令部の各部局に在職している外国分子を統計的に分析してみると、ソ連またはソ連衛星国の背景をもった職員の割合がかなり高い。GHQに雇われている(無国籍者を含む)304人の外国人のうち、最大グループを形成する28%(85名)はソ連またはソ連衛星国の出身である。そのうち42名はソ連の市民権の持ち主である。通常の治安概念からみれば、このグループは事実上の脅威となるはずである。ことに最近ソ連は、元の白系ロシア人の全員、および無国籍者をソ連市民として登録してきているからなおさらである。GHQ従業員のうち199人は帰化した『アメリカ市民権取得者の第一世代』となってはいるが、もともとはソ連またはその衛星国の背景を持つ者である。 したがって、これらの者のなかですでに左翼主義者として知られていたり、同調者として知られている者の占める割合は決定的なものである。…」(『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』p.177)

数年前にIWGの中間報告を読んだとき、ウィロビーもGHQも裏でいい加減なことしてたんだという印象が残っただけでそれ以上の興味はわかなかった。しかし、ウィロビーはCIAが言うように、元東大教授の妻で日本政府にGHQに関する情報を流していた荒木光子という女を愛人としてあてがわれて、日本の元軍人に金蔓として適当に利用されていた間抜けだったのだろうか。最近、荒木光子と当時の元軍人の地下組織とウィロビーに関する情報を追いかけてみて、そんなはずはないという思うようになった。

ウィロビー 1918(Wikipediaより
ちなみに、英語のウィキペディアを読むとウィロビーを揶揄中傷するような書き込みが目立つことにも気がついた。朝鮮戦争のとき、中国の参戦意図を読めずに、間違った情報分析をワシントンに上げたとかいうアチェソン国務長官の主張が今でも幅を利かせているのだろう。遺族会のような団体で出しているウェブサイトのウィロビーのページには、ウィロビーは専門の経験もなく訓練も受けていなかったのに、インテリジェンス部長なんぞに任命したのは間違いだったとか、わかりもしないのに戦史なんぞを書いて出版したのはけしからんとか書かれているのも、それが通説だからであり、朝鮮戦争の裏事情を知られたくない勢力が勝ったからであろう(注1)。それにウィロビーは、ゾルゲのスパイ事件に目を付けて、その調査分析報告(Shanghai Conspiracy)を出し、アメリカにおける親共スパイの摘発(レッドパージ)に貢献したばかりでなく、占領軍の中に巣食っていた親ソ派/共産主義者を一掃したことも知る人ぞ知るだから、今もウィロビーを目の敵にして、ウィロビーを沈黙させようとしてきた人間が世界中に少なからずいても不思議ではない。
注1:
ウィロビーは『MacArthur, 1941-1951』の第15章と16章で朝鮮戦争でのマッカーサーとワシントン/ペンタゴンの対立、ワシントンの「敗北主義」について詳しく説明し、汚名を晴らそうとしている。一方、朝鮮戦争でのウィロビーの「手落ち」について多くの本や論文が書かれてきた。その一つ(2009年に書かれた修士論文)にざっと目を通してみたが、ウィロビーの「トルーマン大統領が満州の空爆を許可すればシナ解放軍は朝鮮に攻めてこなかったはず」という主張の正当性が無視されてきたことは疑惑を呼ぶ。ワシントンにはマッカーサーとウィロビーの失脚を画策していた勢力があったのではという見方がこの論文でも全く欠落している。ウィロビーは『MacArthur, 1941-1951』の最後の章でマッカーサーがなぜ解任されたのかを考察しているが、台湾と朝鮮をどうするかについて、アチェソン/トルーマンが共産主義国(中共とソ連)と結託してマッカーサーに無理難題を吹っかけていたとしか思えない。それにはCIAも加担していた。公開されたCIAの機密文書を調べたIWGリサーチャーが、根元博をはじめとする旧日本軍の軍人たちが中国共産党軍の台湾への侵入を防いだことを全く評価していないのもそれを反映してのことに違いない。朝鮮戦争勃発の半年前、1950年1月の記者会見でアチェソン国務長官が台湾と朝鮮をアメリカの防衛圏内に含めなかったことが何よりもそのことを雄弁に物語っている。さらにウィロビーは、日本の経済開発に英国が利権を獲得しようとして干渉してきたのをマッカーサーが阻止したこともマッカーサーの解任に影響していたと見ている(MacArthur, 1941-1951』p 349)。香港を拠点として大量の軍需物資が連合国諸国から中国に輸出されていたこと、その物資が兵と共に北朝鮮の近くに集結されていたことも朝鮮戦争の背景としてウィロビーはつかんでいた。中国は朝鮮に介入する意図はないと言っていたのはCIAとアチェソンだった(同書の第16章)。日本も朝鮮特需でそのおこぼれにあずかったが、死の商人とその後ろに控える英米や西ヨーロッパ諸国は、戦争で疲弊した経済を立て直すために、そしてソ連の注意をそらすためにも、ヨーロッパ以外の地域で戦争を続けてもらう必要があったのだ。それに比べれば、毛沢東を支援したトルーマン政権にとって朝鮮における共産主義の脅威などたいした問題ではなかったのであろう。朝鮮戦争でトルーマンや国連がとった煮え切らない態度、マッカーサーの手を縛るような命令、決着を付けずに一発触発状態が維持されてきた歴史、などはそう考えなければ理解ができない。今日の北朝鮮問題も韓国問題もその延長上にあるのである。
マッカーサーは朝鮮戦争で中国に原爆を落とさなければ勝てないと言ったために解任されたという話を鵜呑みにしていたが、それは悪意に満ちたプロパガンダだったのだ。トルーマンは赤軍の朝鮮への侵入路となる橋を落とすための空爆さえ許可しなかったのだ。さらに、トルーマンはこの悪意に満ちたプロパガンダによって大統領選を目指していたマッカーサーの政治生命を断つことができたのだ。

ウィロビー(左)と横に立つ河辺 虎四郎 http://www.trumanlibrary.org
ウィロビーは上の若い頃の写真を見ても、左の終戦直後の写真を見ても、繊細で知的な感じがする。

「Ddogのプログレッシブな日々」というブログの「①『GHQ知られざる諜報戦 副題:新版ウィロビー回顧録 C.A.ウィロビー/著(山川出版)』を読む その1」には、ウィロビーは日米は戦うべきではなかったと言ったことがこの回顧録の冒頭に次のように記載されているとして引用されている。ちなみに、この回顧録はウィロビーが1956年に出したMacArthur: 1941-1951: victory in the Pacific (日本語版、知られざる日本占領―ウィロビー回顧録 (1973年)は延禎(GHQの特殊工作組織であったキャノン機関所属の情報官)という朝鮮人が訳している)を元に編者の平塚氏がウィロビーを引退先のフロリダに訪ねて聞いた話しを追加してまとめたものということで、回顧録といっても、ウィロビー自身のことはほとんど書いていない。彼のボスであるダグラスマッカーサーと連合国の日本占領時代と1950年に起きた朝鮮戦争当時の事件に関することが中心になっている。
この回想録をまとめるにあたって、私がまず第一に言いたいことは、太平洋戦争はやるべきではなかったということである。米日は戦うべきではなかったのだ。日本は米国にとって本当の敵ではなかったし、米国は日本にとっての本当の敵ではなかったはずである。歴史の歯車がほんの少し狂ったせいで、本来、戦うべきではなかった米日が凄惨な戦争に突入したのだから。
私が書いたもののすべての基調となるのは、日本との戦争、あるいはドイツとの戦争は西側の自殺行為であったということである。たとえ日本がどんな誤りを犯すとしても、どんな野望を持つとしても、米国が日本を叩きのめすなら、それは日本という米国にとっての最良の防壁を自ら崩してしまうことになるのである。ところが、あの不幸な戦争の結果、ロシア、中国を牽制してあまりあったはずの日本およびドイツの敗戦のゆえに、現在(編注:1971年現在)では、共産主義国家とされているソ連、かつてのツァーリ支配下のロシアそのままの圧政をしくソ連の指揮による破壊転覆の異常な発達が、今日われわれにとっての頭痛のタネとなっているのである。
共産主義国家のいわゆる『革命の輸出』と呼ばれる破壊工作は、もし、わが国が日本を東洋の管理者、ドイツを西洋の管理者にしていたなら、けっして現在のような脅威の対象にはならなかったはずである。わが国はこれら二国と協働戦線を組むかわりに、破壊してしまった。…
これだけでは、ウィロビーは日米は共産主義国家に嵌められて開戦したと理解していたかどうかははっきりしない(ソ連の工作はウィロビーが調べたゾルゲ事件に加えて、Venonaプロジェクトで戦前からのソ連の暗号通信が戦後大量に解読された結果いっそう明らかになった)が、ウィロビーは日本を反共の防壁として再武装させるために、ドイツがやったように、日本軍の中核を温存し復活させるつもりでいたことは間違いない。ウィロビーが1954年に出した『MacArthur, 1941-1951』にもそれに近いことがマッカーサーの見解として書かれている。
He anticipated the day when strong allies would again be needed in the East and West to contain the growing communist threat, when Japan and Germany would be asked to rearm in their traditional role of a bulwark against Soviet imperialistic encroachment.
(P-327)
だから、ウィロビーが元日本軍の地下組織に戦史の編纂と諜報活動を請け負わせるという形で資金を提供し、密輸などで資金を稼げるようにしてやっていた真の目的は日本軍の頭脳となる人材の温存だった(Tessa Morris-Suzukiによる論文 10ページ)。それでは、なぜアメリカはドイツにやらせた再軍備を日本にはやらせなかったのか。議会を通すと時間がかかるから政令でできる範囲で再軍備を行うためという理由で、警察予備隊と呼んだが、中身はなんとでもなったはずである。実際に、装備は国防軍に必要な物をアメリカ軍から受け継いだのだから。

IWGの中間報告には、マッカーサーはCIAとその前身のOSSを毛嫌いして、日本での彼らの活動を制限していたと書かれている(P-198)。マッカーサーは反共で知性派のウィロビーを右腕として信頼していたと言われているが、戦前のフィリピン時代からの腹心、ホイットニーをそれ以上に信頼していたのではないかと思われる。情報部のウィロビーと民政局のホイットニーとの対立、ウィロビー/マッカーサー対CIA/トルーマン/アチェソン国務長官の対立、日本の陰の組織と表の組織の対立は、次に見るように、1950年に朝鮮戦争が勃発し、日本に軍隊を復活する必要に迫られたときに鮮明となった。マッカーサーは朝鮮戦争でトルーマンと対立したために解任され、日本の再軍備が軌道に乗る前、1951年4月に突然日本を去るよう命令された。ほどなくウィロビーも去った。南朝鮮は元々マッカーサーの管轄ではなかった(CIAと国務省の管轄だった)にも関わらず、マッカーサーが窮地を救ったのにである。ウィロビーの説明を読むと、マッカーサーが朝鮮での戦況を有利に展開すればするほど、トルーマンは増々マッカーサーの手足を縛るような命令を出し続けた。つまり、始めからマッカーサーとウィロビーを朝鮮戦争で失脚させるシナリオが用意されていたということなのだ。

軍隊(警察予備隊)再編時の騒動は『秘録・日本国防軍クーデター計画』(阿羅健一著)が詳しく掘り下げている。結局日本の再軍備は中途半端に終わり、服部卓四郎が設計していた国防軍の組織から頭脳となる将校の上層部が排除され、軍隊として機能できるようなものにはならなかったということである。それでも、吉田首相は半年後には渋々将校も採用するようになったが、当初は実戦の経験のない若い世代の将校だけだったらしい。上級将校は公職追放がまだ解けていなかったが、それもGHQの号令一つで解除できたはずであるが、服部の計画通りに再軍備を進めようとしたウィロビーは、再軍備に反対した吉田首相と組んだ民政局のホイットニーに公職追放中の将校たちの採用を反対されたらしい。吉田が旧日本軍の将校たちの採用を拒否した理由として「私は旧陸軍にさんざんいじめられた男だよ」と言ったそうだが、それだけで自国の安全保証に関わる重要な問題を決めたのだろうか。吉田茂が英国大使だったことに関係している可能性は考えなくていいのだろうか。 吉田茂は取り巻く人間を通して、ロスチャイルド(英国籍)の影響を受けていたという人もいる。これまで調べた中では、ウィロビーを除いて、当時、英国がどのような影響力を持っていたのかについて言及している人はいない。

IWG報告書は戦争犯罪に焦点を絞っているので、それ以外のことはあまりわからないが、当時の日本の政治勢力と陰の情報機関の勢力およびCIAの関与に注目して、公開されたCIA機密文書の人物ファイルを調べたTessa Morris-Suzukiによる論文(上下:日本語版もある)がある。この論文については改めて書こうと思うが、それによると、歴代の主立った政治家またはそのアドバイザーがCIAの協力者だった(多分今でも?「日本の中のCIAエージェント」を参照)。コード名までつけられていた。吉田首相はアメリカからの圧力で警察予備隊に旧日本軍の将校も採用すると決めたということだが、その当時、吉田首相が軍事顧問として頼りにしていた旧軍人の辰巳栄一にも、POLESTAR-5というコード名付きで人物ファイルが残っていた。

つまり、占領時代に確立されたアメリカの属国という地位は、主権を回復した後も、外交ルートと諜報ルートを使って維持され、日本の政府も官僚も、日本の利益を独自に追求する政策を考えるという経験を積み重ねることなく、アメリカさらには中国やソ連に言われるままに政策を策定し、法律を作ってきたということなのではないか。今日見られる、日本政府や外務省、さらには財務省の国益を損なうような奇妙な言動は、国策を独自に構築した経験がないことを露呈している、あるいは国益など考えずに、国外の勢力に迎合して言われるままに国を運営していると考えなければ、理解できない(ワシントンD.C.に長年住んで日米関係を観察してきた伊藤貫の話も参考)。これは、冷戦終了後、アメリカが経済戦争に焦点を移し、日本を第一の敵と特定したこと、その頃から日本の経済政策が日本経済を疲弊させる方向に舵が切られたこととあわせて考えると一層納得できる話である。これについては、ネオコン系の民間シンクタンクCSIS(Center for Strategic and International Studies;戦略国際問題研究所)が日本支配の本丸であると指摘する人もいる

川村淳一氏のブログ「『秘録・日本国防軍クーデター計画』(阿羅健一著)の紹介(全2回/第1回)」によると、この本には「戦後旧軍高級将校らが、私利私欲からではなく、純粋な気持ちで国防軍を創設したいと願って行動するが、それに対し内務省出身者や一部の政治家たちが、自らの勢力の回復・維持・拡大などのために反対したことが述べられている。」それについて詳しくは、川村氏のブログと引用されている本を読んでいただくとして、ここでは氏のブログに引用さているウィロビーと荒木光子についてもう少し見ていくことにする(残念ながら、電子版がなく、米国からはすぐに入手できないので本は読んでいない)。
松本清張は、服部卓四郎と辻正信との交友関係、国防軍創設を唱えた服部とそれに反対した吉田茂との関係及びGHQ参謀第2部長・ウイロビー少将と強い繋がりがあった荒木光子を書こうとしたが、執筆を決めた十日後の平成4年4月13日に脳溢血で倒れ、8月に亡くなった。
ということで、占領下の日本で重要な役割を果たした荒木光子についてインターネットで調べることができるのは断片的な情報だけのようだが、次のような記述もある。
光子は美人で男まさりであり、東條英機夫人の勝子とも親しい間柄であった。彼女は編纂の指揮を執り、経費の采配も振るった。ウイロビーと直接会えるのは光子だけであり、専用の車も持っていた。いっぽう、民政局次長のケーディス大佐は、鳥尾(とりお)子爵夫人の鶴代(つるよ)と恋愛関係に陥り、日本人の中には、鶴代にケーディス大佐へのとりなしを頼む者もいた。しかし、昭和23年ころからは、日本弱体化政策から日本重視政策に変わり、ケーディスが進めていた民主化が見直されて、彼は帰国する。ケーディスは離婚し、鶴代の夫は亡くなり、代わりに莫大な借金だけが残った。
服部がウイロビーの信頼を得ることになった要件の一つに、荒木光子の引きもあった。光子は東大農学部教授兼経済学部教授であった荒木光太郎の夫人である。光太郎は反マルクス主義であったため、戦後復活したマルクス主義の大内兵衛(おおうちひょうえ)に大学を追い出された。そして、昭和21年4月に日本商工会議所専務理事に就いた1年後に、戦史編纂の長となった。
「ウイロビー少将は荒木夫妻に日本共産党の調査を依頼し、荒木夫妻は服部に相談して、橋本正勝と水町勝城が直接任務に当たった。当時、ソ連から引き揚げてきた将兵は舞鶴で「スターリン万歳」をしてそのまま代々木の日本共産党に行って入党手続きをしていた。荒木光子はウイロビー少将の期待を一身に受けて活動した。」
 さらにウィロビーについて
 「また、辰巳中将は、昭和25年ころ、ウイロビーが、「講和ができたら米軍は撤退することになる。そのときは、日本は自分の力で国を守らねばならぬ」と明確に述べたと、著者・阿羅健一に証言した。マッカーサーに次ぐ地位の第8軍司令官・アイケルバーガー中将やマッカーサーの後任のリッジウェイ中将も同様の考えであった。」
ちなみに、日本国防軍クーデター計画についてはIWGの中間報告でも、次のように服部ファイルからの情報として触れられている。
In July 1952, Hattori hatched a plot to conduct a coup by murdering Yoshida and replacing him either with the more sympathetic Hatoyama Ichirō or Ogata Taketora. Despite his initial enthusiasm, Tsuji convinced Hattori to hold off his coup d’etat as long as the conservative Liberal Party was in power...Nevertheless, the group did consider murdering other government figures to send a message to Yoshida. (p 214-215)
吉田首相の暗殺を考えていたらしい。見せしめに別の政府要人を暗殺することも考えたとある。首相が鳩山一郎または緒方竹虎なら服部の計画通りに軍隊を復活できると期待していたようだが、1954年に鳩山内閣が誕生しても文民統制が歪めて解釈され、制服組が防衛庁/省の中核に配置されるようにはならなかった。それは、第二次阿部政権の元でつい最近ようやく実現したにすぎない。

ウィキペディアの服部のページには「服部自身の自衛隊への入隊は叶わなかったが、服部機関出身者は自衛隊に幹部として入隊しており。。。」とあるから、政府や官僚が旧高級将校の採用を禁止するなどという愚かしい政策を維持できなかった背景には、アメリカからの圧力に加えて、1952年に主権を回復して公職追放が解除された後は、再軍備反対勢力の力が相対的に弱まったからなのかもしれない。

荒木光子についてインターネットでさらに調べると、牧野邦昭(摂南大学)による『荒木光太郎の経済学研究と活動』に次のような記述がある。
「妻の光子(1903-1986)は三菱本社理事の荘清次郎の娘であり、社交界で著名であった。後述する荒木の「ネットワーク」が形成される上で光子の果たした役割も大きいと考えられる。。。荒木は 1945 年 11 月 17 日に東大を辞職し、その後GHQ参謀第二部(G2)でチャールズ・ウイロビー 少将が服部卓四郎や有末清三、河辺虎四郎、大井篤などの旧陸海軍将校を集めて行っていた太平洋戦争 戦史編纂の日本側チーフ・エディターを務めた(アメリカ側チーフ・エディターは「プランゲ文庫」で 知られるゴードン・プランゲ)。実際の戦史編纂には妻の荒木光子がかなり関与したようである。「荒 木光太郎文書」にはこの戦史編纂の原稿が所蔵されており、占領下におけるGHQおよび旧軍人の活動を 知る上で貴重な資料である。。。残された資料や著作を見る限り荒木は仕事に熱心に取り組む傾向にあり、また多くの人が荒 木の温厚さを証言している。こうした荒木の性格が荒木を様々な研究会・機関の創設・運営に関わらせ ることになったと考えられる。これに加えて妻の光子が三菱財閥と関係がありかつ社交界で活躍したことで、荒木は「日本と海外」、「学界と財界・官界」、「学界における様々なイデオロギー」などの異なる 領域を結びつける役割を果したといえる。。。城島氏は荒木光子の推薦で戦後第 1 回フンボルト留学生としてドイツに留 学し、名古屋大学とフライブルク大学との共同研究に関して荒木光子をよく訪問しており、『荒木光太郎 教授追悼論文集』の刊行に尽力している。特にドイツ関係の「荒木ネットワーク」の継承者といえる。。。東大 経済学部で安井琢磨と荒木との両方に学んだ大石泰彦は荒木の死後に荒木光子に頼まれて蔵書を整理し、 それは近畿大学に納まったはずであるとしている」

荒木光太郎文書解説目録』の注記には、光子について夫、荒木光太郎との関係で次のような記載がある
「1921 年に三菱本社理事の 荘清次郎の娘の光子(1902-1986)と結婚している。光子はその後、社交界など幅広い分 野で活躍し、後述する荒木の「ネットワーク」が形成される上で光子の果たした役割も大 きいと考えられる。」
「河合栄治郎編『学生と西洋』(日本評論社、1941 年)の「執筆者略歴」荒木光子の項による(745 頁)。光太郎・光子の結婚式に出席した高橋誠一郎は、仲人の青木菊雄(1917 年時点で三菱合資 会社総務部専務理事、世界公論社編・刊行『進境の人物』1917 年、239-242 頁)から、「自分 は、ほんの頼まれ仲人にすぎない、荒木家に画を学ぶために出入りしておられた光子嬢と同家の 御曹司光太郎氏との間には、すでに久しい以前から赤い縁の糸が結ばれていた」という挨拶を聞 いたという(高橋誠一郎『経済学わが師わが友』日本評論新社、1956 年、59 頁)。齋藤潤氏(荒 木光太郎令孫)によれば、光子の兄の荘清彦(のち三菱商事社長)と荒木光太郎が東京高等師範 学校附属中学校の同窓生だったので、光子は兄の勧めで光太郎と結婚したのではないかというこ とである」
「『学生と西洋』の「執筆者略歴」荒木光子の項では「英・独・仏に遊ぶ」となっているが、『東 京大学経済学部五十年史』の「経済学部教授・助教授略歴(五十音順)」には荒木の留学先は「独・ 英・米・仏」とされており(1047 頁)、戦前の荒木の略歴にも「英、独、仏、米各国に留学」と ある(「講演者の略歴」『経済倶楽部講演 昭和 14 年第 34 輯』東洋経済出版部、1939 年、69 頁)。荒木は 1927 年の随筆で「欧洲を去つて米合衆国に行けば」と書いてニューヨークでバス に乗った際の様子を述べている(荒木光太郎「車掌用語感」『法律春秋』第 2 巻第 4 号、1927 年、57 頁)ため、ヨーロッパからの帰路にアメリカに立ち寄ったと考えられる。」

日本には未だにゾルゲと尾崎のファン(後継者?)がいるらしく『「ゾルゲ・尾崎墓参会」(2007.11.11)講演記録』なるものが公表されているが、加藤哲郎一橋大学教授による講演記録には荒木光太郎、荒木光子夫妻についての次のような記述がある。
「同盟国在日ドイツ大使館のパーティの常連で、 しばしばオット大使夫妻やゾルゲと会っています。 この荒木夫妻のことが活字になっているのは、米 国の有名な歴史学者ゴードン・プランゲの『ゾルゲ 東京を狙え』(日本語版上下2巻、原書房、1985 年) です。この本の冒頭に「ゾルゲ事件」に登場する主 要人物という人名案内があって、「東京社交界の名 花」として「東大教授荒木光太郎夫人」荒木光子が 載っています。ゾルゲ事件のドイツ側の事情に一番 詳しい日本人として、彼女の証言は、プランゲの本の中に何箇所も出てきます。とくにゾルゲの女性関係についての記述のほとんどは、この荒木光子へのインタビューによるものです。。。
ウィロビーの忠実な部下として、プランゲの下で 使われた日本人の中に、先ほど言及した荒木光太郎、 光子夫妻がいます。荒木光太郎が、日本側の代表・ 編集主任でした。荒木は戦時中の東京帝国大学経済学部の戦争協力の中心人物の1人で、敗戦で東大を 追放されるのですが、ウィロビーが身柄を引き取っ て、利用したのです。 荒木光子夫人は、ウィロビーの愛人と言われたほ どの実力者でした。吉原公一郎の『謀略の構図』(ダ イヤモンド社、1977 年)では、民政局(GS)のケ ーディス大佐と鳥尾子爵夫人の関係にあたるのが、 G2 ではウィロビーと荒木夫人の関係だと出てきま す。」
IWG中間報告には次のような記述もある。
G-2’s Historical Branch in the Nippon Yusen Kaisha Building (NYK) was the hub of this activity. Through Arisue, G-2 recruited and employed some 200 former Japanese officers to assist historian Gordon Prange’s work on the history of MacArthur’s Pacific campaign.(213ページ)

つまり、荒木夫妻が深く関わっていた戦史編纂のために、ウィロビーは有末を通して元将校を200人ほど雇い、そのために日本郵船ビルを使用していた。

GHQが接収して使っていた建物は戦火を免れた堅牢な西洋建築の邸宅やビルだったが、三菱の建物もその中に含まれていた。上記の日本郵船ビルもそのひとつだった。光子はそこにオフィスを持ち、専用のジープも提供されていたとか。また、Z(キャノン)機関とよばれたGHQの秘密工作機関は旧岩崎邸を使っていたという。建物の接収は三菱とGHQの関係の氷山の一角にすぎなかったに違いないが、三菱=岩崎家さらには日本の政財界が、三菱の大番頭の娘、光子とGHQとの関係を利用しなかったなどということは考えにくい。

日米戦でのウィロビーの手柄の一つは、日本で教育を受けた日系二世(4000人余)を情報部に集めて、日本語の情報を素早く読解できる体制を作ったことである。彼らは占領期間中も通訳や翻訳、情報収集で活躍した。IWGの中間報告に次のような記載がある(ATISというのはその翻訳部隊のことである)。
General Willoughby acknowledged the accomplishments of ATIS and the Nisei translators, noting they “… saved over 1,000,000 American lives and shortened the war by two years … they collected information on the battlefield, they shared death in battle … in all they handled between two and three million Japanese documents. The information received through their special skills proved invaluable to our battle forces.”(161ページ)

父親がウィロビーの情報部で働いていた日系軍人だったという人のブログも参考になった。家族や親族の中には日本軍で戦った者、アメリカ軍で戦った者、アメリカの強制収容所に押し込められた者がいたという。荒木光子に関する情報もある。
In his efforts to make his recorded history unique, Willoughby paid Mitsuko to find and compensate artists who could paint battle scenes from Japanese eyes.  He felt photos were too ordinary plus many were from US sources. Mitsuko went about Tokyo seeking artists to paint war scenes from the Japanese point of view.  This task was made much easier as Willoughby gave her permission to ride about in her own private jeep.  This was a definite indicator of his affection for Mitsuko as all Japanese women were prohibited from even riding in any Allied military vehicle, let alone have one assigned to her...
光子は日本側の戦史に挿入する挿絵を画家に描かせるための資金をウィロビーからもらい、画家を雇うために東京中を専用のジープで飛び回っていたが、ジープはウィロビーの特別な計らいによるものだった。ウィロビーがいかに光子を気に入っていた(重要視していた)かがわかる。(荒木家とのつながりで画家を探すのに苦労はしなかったと思われるが。。。)そのとき画家に払ったお金が多すぎると騒いだ人々がいたという。

ウィロビーがまとめた戦史は4冊に分かれていて、“Reports of General MacArthur Japanese Operations in the Southwest Pacific Area Volume II”の1と2が日本側の戦史である。挿入されている絵は全体に鈍く暗い色合いのもの、夜のシーンであろう、が多い。この4冊はいくつかあるアーカイブ・サイトの一つからpdfその他のフォーマットでダウンロードできる(開戦の詔書のコピーが左右反転(裏返し)になって印刷されているのはなんとも残念だが、pdf版をAcrobatで反転すれば読むことができる)。

Reports of General MacArthur – Japanese Operations in the Southwest Pacific Area Volume II Part II”, 595ページ

同姓同名の別人かも知れないが、荒木光子らしき人の写真はインテリアコーディネータの村上英子さんのページにあった。下の写真の女性が働いていたパシフィックハウスというインテリア設計事務所に村上英子さんが入社したのが1956年だというから、この写真は1956年以降に撮られたものであろう。ウィロビーは1951年4月に日本を去ったマッカーサーの後を追うように日本を去り、夫の荒木光太郎は1951 年 9 月 29 日に肝臓病で死去。1952年4月にはGHQに接収されていた建物が返還され、4月28日に日本は主権を回復した。服部卓四郎(元参謀本部作戦課長)がウィロビーの下で日本側の戦史の編纂をしながら、GHQの目を逃れて別途編纂していた『大東亜戦争全史』は1953年に出版された。だから、1956年には光子はGHQや戦史編纂に関係した仕事から解放されていたはずである。そのころ光子は50代なかば、写真の人の年格好とも矛盾しない。光子は「荒木家に画を学ぶために出入り」していたというからインテリアというのも納得できる。海外生活、マニッシュ、などという記述から考えてほぼ間違いないと思う。


尊敬する人は、インテリアの恩師である荒木光子女子。荒木光子女子
故荒木光子女子。着物姿は珍しかったとのこと。

 私のインテリアの恩師は荒木光子女史です。
 荒木さんはその当時にして、ヨーロッパをはじめとする海外生活が長く、英語、仏語と語学が堪能でした。多くのヨーロッパの文化人と対等に交流し、本物を知っていました。そして、おしゃれで、マニッシュなスーツと帽子がよく似合う素敵な方。私がいちばん尊敬する方です。

荒木家の光子(1904-1986.6.5)の墓には十字架とフランシスカという戒名/クリスチャン名が刻まれているそうだ。

ウィロビー(1892 – 1972)の墓は軍人のためのアーリントン国立墓地にある。

※占領下の日本を舞台にした青少年向けの探偵小説を書いている檜原まり子というミステリー・ライターがいる。『華族探偵』というシリーズで1から3まである。当時の雰囲気を知るにはなかなかよい読み物になっている。